Destructured
Yutaka Yamauchi

2019

EGOS and OS Workshopを終えて

EGOS and Organization Studies Workshopが無事終わりました。多くの方のご支援で大成功となりました(と、みなさんからフィードバックを受けました)。しんどかったですが、やってよかったと思います。このワークショップの目的は、EGOS (European Group for Organizational Studies)というヨーロッパ中心のグローバルな学会と、東アジアの研究者コミュニティを橋渡しするというものでした。… このワークショップをやるにあたって注意してきたのは、欧米の研究者と日本・東アジアの研究者が「対等」に運営するということです。

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主体の何が問題か

自分の研究では主体概念や人間中心主義を批判したりするのですが、最近きちんと説明しなければ通じないことが多かったので、あらためて書いておきます。組織文化論のレジュメとして...

主体を批判するというとき、よく勘違いされるのは、人間という存在を否定しているわけでも、人の意図的あるいは戦略的な行為を否定しているわけでもありません。むしろ人の行為を積極的に説明するために、まず議論する必要があるのです。まず「主体」というのが特殊な概念だということを説明する必要があります。主体概念は近代という時代に特有の考え方で、それ以前にはあまりピンと来ないもので、近代から距離を取った我々の時代においても前提とできないものです…
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真実を伝えるメディアのデザイン

学部ゼミの活動で、後期から「真実を伝えるメディアをデザインする」を始めています。テレビや新聞などの現在のメインストリームのメディアはどうしても真実(広い意味で)を伝えるということができません。真実を真実だと言って伝えると信憑性がなくなる時代ですが、特にメインストリームのメディアは真実を真実らしく伝えるしかないように思います。そこで越前屋俵太さんと一緒に、そういうメディアの可能性を探っています。俵太さんが30年弱前に…


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組織論におけるエスノメソドロジー

少し前になりますが、『組織科学』という国内組織研究の中心的な雑誌に「質の高い研究論文とは?」というスゴそうな特集がありましたが、その影で平本さん(と私)が書いたエスノメソドロジーの論文が掲載されました。このような特集が対象としているメインストリームから外れた場所で仕事をしている我々にとっては、「質の高い研究論文とは」という特集の後ろに、自由論題で掲載されたのは少し悪意を感じなくはないですが、しょうがないとも思います。

エスノメソドロジーは組織論に貢献できるという信念を持つ研究者は多く、これまで様々な研究者が試みてきました…
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「ほんもの」とは

現在、「ほんもの」(真正性 authenticity)の価値がどんどん高まっています。先日、京都外国語大学主催のシンポジウムで観光の「ほんもの」と「にせもの」について、越前屋俵太さんのファシリテーションで議論しました。そこで新しい気付きを得ることができましたので、少し説明したいと思います。チャールズ・テイラーが言うように、「ほんもの」は、18世紀末の近代の開始時点で個人主義や道具的合理性が社会に浸透してきたときに、反撥して生まれたロマン主義に始まると考えられます。自分の内なる自然の声を聞き、自ら独自のスタイルを生み出すというものです。このときから、芸術は模倣としてのミメーシスから、独創的な個性を「表現」するようになりました。しかしここで問題なのは… Read More…

サービスの弁証法

従来からサービスの関係性を弁証法で捉えようと提案してきました。私の研究が出発点が次のような疑問からでした。サービスの理論は全て客を満足させるということを前提としているにも関わらず、実際には多くのサービスが客にとって緊張を強いるようになっているのはなぜか? 京都の料亭、東京の鮨屋、高級なフレンチなどのことであったり、カッコいいカフェやリテラシーが求められるラーメン屋のことです。行きついた答えは、サービスとは弁証法的な闘争だというものでした。つまり、独立した他者によって自分が否定されて初めて、自分を証明し、他者に承認されることが可能になるということです。逆に一方的に満足させようと向って来られると、そのようなサービスには魅力がなくなったしまいます。つまり我々は満足させて欲しいのですが、満足させようとされると満足できなくなるという弁証法があるのです… Read More…

トランスローカル

シンク・アンド・ドゥタンクRe:publicからMOMENTという雑誌の創刊号が届いた。最初話しを聞いたとき、なぜ今雑誌を出すのか、そのことの意味がわからなかった。雑誌という媒体はもはや意味のない古臭いものではないか。

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この雑誌は「トランスローカル」という概念でまとめられている。そして、創刊号の特集はエイブルシティ。バルセロナ、阿蘇、アムステルダム、奈良などの取り組みが取り上げられている。それぞれの事例は… Read More…

EGOS Workshop in Kyoto

今年12月13-15日に京都大学でEGOS and Organization Studies Workshopを行います。発表申込は6月30日締切です(1,000ワード以内)。正式にはウェブページCFPなどで説明していますが、個人的な思いを書いておきたいと思います。

EGOS (European Group for Organizational Studies)は2,500人以上の会員がいる組織研究の学会組織です。経営学ではAcademy of Managementという巨大な学会組織がありますが、EGOSは組織研究に特化し、ヨーロッパを中心とながらグローバルな会員を抱える、存在感の大きなコミュニティです。毎年7月の年次大会(Colloquium)には、日本の研究者もそれなりの数参加しています。今回はEGOSとそのジャーナルであるOrganization Studiesの名前をつけたワークショップを、京大で日本のコミュニティ向けにやるということです。

私のように主流派ではない研究をしていて、むしろ主流派に批判的な場合、米国中心のトップジャーナルというのを狙うのには限界があります。例えば、エスノメソドロジーをやっていて組織論で論文を出していきたいと考えている研究者は一定数いますが、方法論的な特異性から組織論で出せるジャーナルは限られてしまいます。具体的には、Organization StudiesとJournal of Management Studiesが我々の中でのトップジャーナルです。米国系のジャーナルは、何かの特集でうまく入り込まない限り、レビュアーが見当違いなことを言い始めて終ってしまいます(エスノグラフィだと勘違いしているレビュアーが最もたちが悪いです)。エスノメソドロジーに限らず、そういう非主流派の領域でやっている研究者は同様のジレンマをかかえていると思います。

しかしながら、2016年にサバティカルを取ってヨーロッパに滞在してわかったのは…
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デザインに哲学は必要か?

古賀徹先生から、『デザインに哲学は必要か』(武蔵野美術大学出版局)をご恵贈いただきました。ここで展開されるデザインは、人間-脱-中心設計というような標題で私の考えていることに重なるので、とても刺激を受けました。私自身、デザインがもはやデザイナーのすることには限定できない昨今の状況で、デザインをどう捉えるのかという問題に頭を悩ましてきました。古賀先生のお人柄をあらわすような流れるような文章を、私なりになんとか理解しようとしたぐちゃぐちゃの痕跡を書きとめたいと思います。

古賀先生は、デザイナーが人々が豊な生活を営めるように技術を洗練させていくものというデザインを、デザイン2.0と呼んでいます。うまく考え抜かれて、わかりやすく、痒いところに手の届くようなデザイン。これは人間中心設計と呼ばれるものでしょう。

デザインによってすべての問題が解決された世界においては、人間もまた、その潜在的機能を充分に発揮しながら〈何ごとも起こらない〉ままにスムースに死に至るである。(p. 39)



これがデザイン2.0です。それに対して、「デザイン3.0」とは次のようなものです。

デザインは技術を洗練させるとともに、その技術を要求する人間に対し、「本当にそれでよいのか」と同時に問いかける技術でなくてはならない。このような、〈問いを発するデザイン〉のあり方を「デザイン3.0」と定義することができる。(p. 41)



デザイン3.0とは、単に人間を豊かにするためにうまく機能するシステムではありません。まずシステムは閉じられないため、考え抜いて作ったとしても期待通りにうまく機能することはありません。必ず、システムは危険にさらされます。本来人間を豊かにするはずだったシステムは、多くの矛盾をもたらすでしょう。そこで重要となるのがデザイン3.0ということになります。そこではむしろシステムは閉じられず、自らが問いを発することになります。しかし、「技術」が「人間」に向かって問いを発するとはどういうことでしょうか?
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コンビニという安らぎの空間

学部の学生と一緒にコンビニについて考えています。コンビニは学生に身近なトピックであり、現在進行形で社会問題にもなっているテーマですので、扱うにはちょうどいいかと思いました。学生との議論を先日週刊ポストの取材(なんでやねん)で話して盛り上がりましたので、すこし書いてみました。

コンビニは、いつでも欲しいものが簡単に手に入る便利なものとして発展してきたというのが一応の常識です。しかしコンビニは便利で効率的なものというだけではなく、現代の社会において「文化」を形成しています。学生の話しを聞くと、コンビニで知り合いに会うと気まずい。複数人のグループで行くのは違和感がある。夜バイトの帰りに疲れたときに、フラっとコンビニに寄りたくなる。考えることなくぼーっとしていられる空間。店員から声をかけられることもないし、自分の個人的な空間。大きすぎず安心できる空間。というように捉えているようです。そういう意味では、コンビニは便利であるという以上の何かです。都会でない場所で育った学生さんは、夕食後に家族でコンビニに行って、それぞれが自分の好きなスイーツなどを買ったり雑誌を見たりするらしいです…
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論文の構造

ようやく新年度です。なんとか全員の博士論文の目処がつきました。すでに学位を取られた方々、おめでとうございます。論文の書き方については何度か書きましたが、こういうことを学ばずに博士号を取って修了してしまう学生さんが多いという現実に責任を感じています。下記は私の個人的な説明ですし、他の教員は違った説明をすると思います。どの教員も考えを持って指導しているので、それぞれの説明を聞いて自分なりに参考にするのがいいかと思います。ちなみに自分がきちんとできているという意味ではありません。

組織論という我々の領域では、論文の根幹は理論的な貢献です。何か新しいことがわかったというだけでは、論文が成立しません。次の4つのステップからなります。


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デザインとは--須永剛司先生との議論を通して

須永剛司先生が東京藝術大学を退任されることにあわせて、特任教授としてご尽力いただいてきた京都大学デザインスクールでも特別講義をしていただきました。

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須永先生の結論は、「つくるプロセスがわかること、それがデザインだ」というものでした。デザインとは単につくることではなく、つくることがわかること、そしてそれがわかることによって、つくるもの(こと)が変容することである、というように理解をしました。須永先生は、デザインとはプロのデザイナーによる特権的な営為ではなく、市民が自分たちの生活をつくるということにまで広がっているというお話しをされました。デザイナーは市民がつくるプロセスをわかるようにすること、それを通して市民が新しい「つくる」段階に進むことを支援するということなのだろうと理解しました。この新しい段階の「つくる」は、それまでの「つくる」とは異なり、「デザイン」と呼ばれるべきものとなるというような話しかと思います。

この考え方は私にはとても腑に落ちるところがあります(と同時に受入れがたいところもあります)。デザインするという行為が、デザインとは何かという言説を含むということは、この時代の要請だと思います。以前は「デザイン」というと「こういうものだ」という理解をする暗黙の拠り所が存在していましたが、そのような拠り所の信憑性がなくなった時代です。

これはデザインに限ったことではありません。例えば、「大学」というと以前は「こういうものだ」という理解が得られていたと思います。特に説明を要しなかったのです。学問が社会の中で何か特権を持っているように考えられていましたし、大学教員はある種社会の外側に位置付けられ変人として片付けられてというところがあると思います。しかし、今はこのような拠り所に信憑性がなくなり、社会の中で特別な位置が与えられるものは存在しません。だから、大学教員はもはや授業をするとか、研究をするというとき、単に授業をしたり、研究をするだけでは済まされません。授業や研究をしながら、大学教員とは何か、大学とは何か、授業とは何か、学生とは何かについての言説を打ち立て続けなければなりません(これは教員だけによってではなく、様々な人々、制度、モノとの相互作用によってなされます)。

同様に、デザインするということが、何かをデザインするだけではなく、デザインするということがどういうことなのかという言説を含むことは必然です。これは最初に100年前にアートにおいて、デュシャンによってまず始まったことで、60年代以降の現代アートはすべからくこのパフォーマティヴィティ(行為を通して意味や現実を打ち立てること)を含まなければならなくなりました。現在のデザインも同様です。だから、デザインするということは、事前に定義できないのです。デザインとは何かという定義は、デザインの行為を通して打ち立てられるしかありません。

ここからが本題ですが、このデザインの定義はデザイナーが自由に提示できるものではありません。既存の拠り所が信憑性を失ったというのは、単に既存の枠組みが解体したというだけではなく、その枠組みに対する批判があるということだと思います。デザインやデザイナーがそれまで特別であったということに対する異議申し立てがあるように思います。この異議申立ては、ひとつには社会の中で既存の権利を持つカテゴリに対する一般的な批判ですが、もうひとつにはデザイン自体に内在するものです。つまり、デザインはあらゆる前提を問い直しクリエイティブに新しいものを表現するという行為であるという主張があるとすると、当然ながらデザイン自身の拠り所も問い直されます(学問も同様です)。現在において一切のエリート主義はその欺瞞を見逃されることはありません。

この状況で、デザインするという行為がデザインの定義をパフォーマティブに打ち立てるということは、必然的に自己破壊を伴うということです。つまり、デザインする活動は、デザイン自身を批判することが避けられないのです。たとえば自分のデザインはこれまでのデザインとは異なるのだという主張になるかもしれませんし、さらにデザインなんて無意味だと主張するデザインや、あえてデザインしないという方法もありえると思います。しかしながら、デザインを否定的に捉えるだけでは、カッコいいかもしれませんがつまらないものとなります。自己破壊をすることで新しいデザインの可能性を提示するというリスクに向き合った肯定的な実践こそが求められると思います。このニーチェ的なデザインが、デザインの最先端だと思います。これが須永先生のされていることを、私なりに解釈したものです。

デザインスクールは今月で補助金が終了します(プログラムは続けていきますので誤解のないように)。須永先生も東京藝術大学を退任されます。このタイミングでデザインの新しい姿が見えたことは、デザインスクールを一区切りするひとつの成果と言ってもいいように思いますし、須永先生が長いキャリアの中で積み上げてこられたものの重みを考えると当然のことのようにも思います。須永先生、これまでデザインスクールへのご尽力ありがとうございました。また、これから新しいチャレンジをされるので終りではありませんが、このようなお仕事を残されたことに感謝いたします。


「価値」とは何か

最近「価値」について議論する機会が続きました。ちょうど『世界の食文化辞典』(丸善出版)に、「味のランク付け」という文章を書きました。並行して博士課程の佐藤くんが「価値づけ研究」で博論を書いていますし、先日のMBAの学生さんの発表でも「価値」が議論されていました。

何かのモノに本質的に価値があり、価値評価はそれを測定するという考え方は多方面から批判されてきました。価値はモノにあるのではなく、一つのパフォーマンスつまり動詞であるという考え方は、現在の社会においてとても重要だと思います。なぜかというと、現在の社会には何らかの価値を基礎づけるような大きな構造はすでに解体されており、様々なものがほぼ自由に結びつくようになっています。既存の枠組みで与えられた価値を語れない以上、我々は常に価値を定義する実践に従事しなければなりません。例えば、「社会的起業家」のような概念は従来の構造からすると自己矛盾ですが(社会的価値は資本主義的価値と相容れない)、今ではそれが自由に結びつき、その自己矛盾が価値となっています。しかし、社会的貢献をマーケティングとして利用しているだけでしょという批判にさらされますし、何か具体的な事業をした瞬間に「本当」の社会的価値ではないという矛盾をつきつけられます。そこで自分は本当に社会的事業を行っているのかを問うこと、つまり自分自身を否定し自分が何なのかを定義しようとするリスキーな実践が避けられないのです。

価値づけがパーフォーマンスであるというのは、Michael Hutterによる村上隆の分析を参考に考えるのがわかりやすいと思います(2年ちょっと前にコペンハーゲンビジネススクールに来られたときに初めて話しを聞きました)。村上隆は芸術家でありながら、ルイヴィトンのバッグをデザインしました。それだけ言うと、芸術とビジネスの境界があいまいになったというだけの話しで、今さら取り立てて言うほどのことはありません。それだけではなく彼は美術館での自分の展示の中で店を作りルイヴィトンのバッグを販売しました。どういうことでしょうか? これは村上隆がデュシャンピアンとして意図的に行ったデモンストレーションなのです。つまり、美術館という従来資本主義から距離を取ってきたものの中でビジネスをするというのは、芸術の定義に対する一つの批判なのです。それは自分がやっている芸術を無意味にするカッコいい身振りであり、(無意味になった)芸術家がデザインしたバッグとして高い値段をつけ人々に美術館という矛盾した空間で購入させるということの無意味さを批判するエリート主義なのです。つまり考え抜かれた天才的なリレーショナルアートなのです。(芸術の専門家ではないので適当なことを言っています…)

そして重要なのは、このような何重にも入り組んだ価値を否定するパーフォーマンスによって、村上隆という芸術家は自らの価値を高めていくことです。資本主義を批判すればするほど経済的価値が高まるという従来からの弁証法がありますが(落札した瞬間に破壊されることでさらに価値が出るなど)、この村上隆の場合は資本主義の原理を肯定的に最大限パフォームすることによって芸術そして自分自身を否定し、返す刀で資本主義を馬鹿にする(つまり批判している人も批判している)というパーフォーマンスが、批判をしないからこそ最高度の批判となりえることによって、自身の価値を高めるわけです。単に儲けることを批判するのはすではもう時代遅れで、「またか」と思われるだけで批判にはなりえないでしょう。

価値がパーフォーマンスであるというのは、何かに価値があったのではなく、価値は実践を通して遂行的に(performativeに)作り上げられるということです。これは逆に言うと、単純に自分の価値を高めようとする凡庸な実践は価値を落とし、あるいは価値を測定しようとする行為自身が価値を裏切ることになります。そのような価値を議論すると、そうは言っても最終的には経済的な価値に置き換えて測定できないと意味がないという批判がよくあります(例えば企業にとっての実務上の含意がなくなってしまう)。しかし重要なのは、その置き換えをどのようにするのかという実践が決定的だということです。経済的な価値に置き換えるという実践は価値に内在的なので、例えば置き換えないような実践が置き換えを可能にしますし、置き換えようとすると置き換えできなくなります。それを全て踏まえた上で、あえて経済的価値に置き換えようとするパーフォーマンスによって、たとえば経済的価値を批判してみせることで遂行的に価値を高めるというような二重の実践であれば少しは意味はあるとは思いますが、そこまで考え抜かれていませんし、そんなリスクを取る準備もないだろうと思います。

このような議論は芸術にのみあてはまるという反論はあるかと思いますが、そもそも資本主義の現段階において、一度市場に流通したものは一瞬に陳腐になってしまい、価値は市場の外にしかない(しかし市場の外など存在しない)という現実を直視する必要があります。つまり、現在のあらゆるものの価値が問題となっているのです。もちろん、空腹を満たす、A地点からB地点に移動する、病気を治療するというような「なくては困る」ものの価値は残りますが、それ以上の価値は根拠を失っています。我々にとっては、価値とは何かという定義の実践が価値に内在的であるということは、避けて通れない問題なのです。私が「サービスとは闘いである」と主張し、一見おこっているように見える鮨屋の親方は、おこっているからこそ価値が生まれるという話しをしているのは、この遂行性のことです。

以上のことを理解できない企業は、価値を生み出すことに困難を抱えるでしょう。行政も、たとえば文化の価値が重要であるとようやく理解し始めて予算をつけようとしていますが、そもそも予算をつけるという行為自体が価値づけに内在的であることを理解しないと、余計に価値を毀損するだけになる可能性が高いです。しかしながら実際にはほとんど理解されていないのが現実です。それは我々学者がきちんと伝えるという価値づけのパーフォーマンスができていないという反省でもあります。この程度のブログを書いているのでは全然だめというわけです。