Destructured
Yutaka Yamauchi

Service as struggle

サービスは闘争か、顧客満足度か?

この3ヶ月ほど、サービスが闘争であるということについてヨーロッパ各所で議論を重ねているのですが、かなり反応はいいです(米国とは違いますね)。ただやはりどういうときに闘争になり、どういうときに従来の満足度重視のサービスになるのかについて理論的な説明が必要であるという議論は避けることができません。こういう議論をするときの、私の説明をここにも紹介しておきたいと思います。これはどの場合に人間<脱>中心設計が、あるいはどの場合に人間中心設計がふさわしいのかの議論でもあります。

サービスが闘争になるのは、サービスが価値共創(value co-creation)であるとき、つまり相互主観性(inter-subjectivity)の領域でサービスが問題になるときです。客も提供者もそれ以外の人も一緒になって価値を共に創るので、そのときのサービスは相互に了解し合うという形で相互主観的に達成されています。主観性の領域ではありません。主観性とは、少し乱暴に言うと、主体が客体から分離された上で、客体を眺め、その価値を主観的に見極めるというものと考えられます(乱暴というのは、たとえば現象学の主観性ではその分離を棚に上げ知覚、行為、存在に着目するからです)。

もし「客」という主体が、「サービス」という客体の価値を判断しているとすると、実はその価値は客も一緒に共創しているので、客も客体の中に絡み込まれ、客の「価値」も問題となります。つまり客がどういう人なのかが問題となります。だからレストランで革新的な料理を食べて、「美味しい」というような表現をすると、そのような月並なことしか言えない洗練されていない人ということになります。つまり相互主観性の領域ではその人自身が絡み合っているので、主体と客体を分離できないわけです。だからその人の価値も問題となり、緊張感が生まれ、自分を証明しようとする闘争となります。

しかしながら、主体と客体が分離される一瞬というのはサービスにおいて何度も見られます。つまり客が目の前に握られた鮨を食べて本当に美味しいと思ったとすると、それは主観性の領域での価値です。この価値は共創されていないので、主体が鮨という客体に対して評価を下すことができるわけです。サービスにおいて難しいのは、共創される価値と、客体自体の価値(鮨の美味しさ)が共存するということです。病院のサービスがわかりやすいでしょう。病気を直すというのは客体としての価値であり、共創された価値ではありません。患者が病気という客体としての問題を解決する(してもらう)という価値です。

しかしすぐに考えればわかるのですが、価値共創が起こっている以上、このような主客分離は本来は存在しません。上記で「一瞬」と書いたのはそういう意味です。つまりその一瞬は主客が分離したように見えますが、次の瞬間にはその人がどういう人なのかが問題となる相互主観性の領域に置かれていることに気付きます。客が美味しいと思ったとしてそこでは終らず、すぐに美味しいと思った客のレベルが問題となります。患者が病気にどういう関係性を持つのかが問題となります。

ただそれが一瞬であるからと言って、意味がないとは言えません。なぜなら実際に食べた鮨を美味しいと思うこともサービスにおいては重要であり、病気が直ることがとても重要だからです。つまりサービスにおいては共創されない客体自体の価値というのが無視できない部分を占めるのです。もちろんこの価値は単独では存在しません。この価値にすぐに人々が絡み取られ、人々自身の価値と分離できないからです。しかしそれでも非共創的な客体自体の価値は無視できないのです。ちなみに価値共創を重視するSD Logicでは、価値が受益者にとってユニークに現象学的に決められるとなっているので、上記の二つの価値を混乱した上で、共創ではない方の価値を中心に議論しているという誤ちを犯しているわけです。

私がサービスデザインは人間<脱>中心設計でなければならないという時には、価値共創であるならばそうならざるを得ないということです(実際にサービスはそのように定義されているはずです)。サービスが高級であるとか大衆的であるとかは関係なくそうです。しかし実際にサービスをデザインするときには、たとえ一瞬であっても非共創的な価値も重要です。鮨を美味しくしなければなりませんし、病気を直すために効率的効果的にサービスを構成しなけれなりません。病院のデザインをするときに、鮨屋のように患者さんにわかりにくくしたり、患者さんを圧倒したりすることが一義的に正しいわけがありません。しかしこれは病気を直すという客体に関する非共創的な価値が重要であるからです。このときには客体をよりよくしていく人間中心設計が必要となります。サービスにおいては常に共創される価値と客体自体の非共創的価値が混在しますので、人間<脱>中心設計と人間中心設計の両方が必要となります。この二つの設計はNormanの言葉を借りれば「正反対」ですので、サービスデザインはかなり矛盾したことをしなければならないということです。

もう少しで帰国します。その前に少しだけまたフランスに行って議論してきます。

文化とは

文化をキーワードにして活動しているのですが、話しが噛み合わないことが多々あります。サービスは文化のゲームですし、グローバル展開において異文化間コミュニケーションが重要とされ、デザインでもエスノグラフィ(民族誌)が持ち出されますが、文化というものがあまりきちんと議論されていないように思います。私のイメージを説明したいと思います。

文化というと我々に染み付いた習慣や認知のパターンのようなものだという感じで議論されますが、これではあまりに漠然としています。私の文化に関するイメージは、常に不安定な中で表象され、交渉され、歪められ、押さえ込まれているようなものという感じです。一般に日本の文化とか言った場合、日本人なら誰しも体得している均質で統一的なイメージが想定されていると思いますが、それは文化を神聖化したいという我々の欲求を投影しているだけで、文化をそのようには捉えることは不適切です。

まず文化というものが、他者との関係において初めて意味を持つということを理解する必要があります。文化は基本的には我々にとって当たり前になっていることであり、客体としてそこにあって記述できるものではありません。例えば、我々日本人が箸で食べているとき、日本の文化だと感じたり表現することはありません。もしそのように感じたり表現するときには、必ず他の文化と接しているはずです。箸をあたりまえのように使わない文化の人と話しをしているなど。文化それ自体は決して表象できないのですが、同時に我々は文化を他の文化との関係の中で表象しようとして生きています。そしてこの表象を通して文化が打ち立てられるのです。文化という実体が表象の背後にあるという本質主義が拒否されるわけです。

つまり文化とその表象には、「他者」との関係が絡み合います。我々が文化を語るとき、何か誇りのようなもの、優越感のようなものを感じていないでしょうか? 文化を持ち出すということは、他者との関係を定義する行為です。他者に対して優越するということは、他者を否定し貶めることに他なりません。そして誇りや優越感が問題になるということは、裏返せば自己が脅かされているということです。そこで何とか文化が優れていることを主張しているというわけです。逆に言うと、この優越感は劣等感を伴っています。特に文化は根源(歴史とか伝統とか)を暗示しますので、その幻想に託して自分の拠り所とするのです--もちろんそのような根源は我々の欲求を投影した代補です。このような他者を前にした感覚は文化にとってはどうでもいい付随物ではなく、むしろ文化という概念の中心をなすものです。そしてこのことを突き詰めると、文化の表象というものは、自己に対する「不安」の中で、自己を示そうとする動きだということになります。ヘーゲルに依拠して
サービスは闘いであるということ(他者との相互主観的な闘いの中で自己を示すこと)と文化を結び付けて議論することの必然性がここにあります。

よく言われることですが、エスノグラフィとはある現場の文化を客観的に理解し記述することではありません。他者との関係で自己をあらためて理解することです。デザインにおいてエスノグラフィが意味を持つのは、デザインの対象となるユーザのニーズを理解するからではなく、デザイナーの自己が切り崩され、新しい自己を獲得し(ようとし)、新しい視座から世界を捉え始めることによって、革新的なデザインを導くからです。エスノグラフィは他者を表象の中に押し込めるものであり、他者を飼い慣らす政治的な行為です。エスノセントリズムを避けようとして、現場の人々が有能でありイノベーティブであることを示すような記述ほどエスノセントリックで暴力的なものです。別の社会の人について記述するとき、書き手の他者に対するイメージが写し込まれます。さらには、自分がどうありたいのかというイメージも写し込まれ、それは裏返しとして他者のイメージとなって表象されます。これは文化を表象するときには避けることができませんし、文化を議論する人は常にこの危険性と向き合わなければなりません。デザイナーがユーザを単純化してデザインする場合、そのデザイナー自身の持つ自分に関する不安と向き合っていないのです。

私は
文化のデザインを掲げて研究していますが、文化なんてデザインできないと反論されることがあります。しかしそのような反論では、文化は常に表象され続けているのであって、つまり全員が日々文化をデザインしていることが忘れられています。しかし反論にはもっと重要なサブテクストがあります。文化という概念には何らかの神聖な響きがあり、それをデザインという何か軽々しいもの(見た目とか美しさとかに関わるとか思われているようなもの)と結びつけることの違和感があるということだと思います(デザインという概念が何か楽しげであることが嫉妬を生んでいるということもあるのでしょう)。我々にとって文化は神聖であり、文化に対する恐怖があります。だからそれがデザインされると言われると反論するのでしょう。しかしそれは、文化というものが本質的には他者の反照としての自己の定義に関わるからであり、我々の不安に結びついているからです。むしろだからこそ文化のデザインを議論する必要があると考えます。

このような対象にデザインを結びつけるというのは、学問としてぎりぎりのところを追求しようという挑戦なのです。同時にデザインという概念が完全に修正されなければならないということは言うまでもありません。それについてはまた議論したいと思います。

ブログではここまでしか書けませんが、こんな雑な説明では余計に反発されるかもしれません。現在まとまって書こうとしていますので、それが進めばご案内します。

ホスピタリティとは

京都大学経営管理大学院は、従来からサービスの研究・教育を進めていますが、今年度から経産省のプログラムでホスピタリティの教育プログラム(インテグレイティド・ホスピタリティ教育プログラムの開発)を開発することになっています。その中でなぜか「異文化間コミュニケーション論」という授業が割り当てられました(この意味は最後に書きます)。

ホスピタリティ(歓待)は、単に他者を迎え入れることです。このことは社会の根底にある問題を指し示しています。他者の存在は、人にとっては根源的な意味を持ちます。人にとって他者は絶対的な外部性であり(自分のコントロールを越えたもの)、不安の源泉であり、かつ聖なるものです(宗教的意味ではなく)。そしてそれに自らを開き、無条件に(つまり見返りを求めず、名前を聞くことなく)迎え入れること。これは人間の倫理の始まりでもあります。現在の社会にはこのホスピタリティという概念が失われています。外国人に、移民に、異教徒に、同性愛者に対して… 受入れるのではなく、拒否をして自分の家を守ることだけが問題となります。イマニュエル・カントがホスピタリティを永久平和の基礎に置いたことが思い出されます。

ホスピタリティは歴史上、世界中のどの文化にも見られる営みです。不意に外からやってきたよくわからない他者を受入れもてなすこと。そのよくわからない他者を庇護し、精一杯の食べ物と飲み物でもてなし、自らの家族までも差し出し(不快にさせたらすみません)、去るときには贈物を与えること。自分たちを殺戮しにきたコルテスをもてなし、金庫を開き財宝を差し出すこと。なぜそのようなことが起こるのか? まず他者が神の化身であり、あるいは神から使わされたものであること、つまり見知らぬ他者が聖なるものであることを理解する必要があります。他者を迎え入れるということは、絶対的な存在を前に自らを無化することなのです。おもてなしやホスピタリティの逸話では、客を迎える人は貧しい設定となっているものが多いです。

一方でこのような無条件に見えるホスピタリティは、神への恐れから生じるのであり、時には贈物(イサクなど)をもらうのであれば、見返りを求めていることに他なりません。宗教的な意味がないとしても、他者の外部性がそのまま聖なるものとして妥当します。デリダが言うように、ホスピタリティの絶対的な唯一無二の掟(無条件にもてなすこと)と、実際にホスピタリティを命令する諸々の条件付の法(異邦人の権利などの法)には絶対的な矛盾があります。法の命令に従ったホスピタリティは、義務に従ったという意味で無条件の絶対的なホスピタリティではなく、何かを期待した、あるいは止むを得ずしている、つまり見返りや処罰を前提としたホスピタリティなのです。だからデリダは本来のホスピタリティは不可能であると言い、Pas d’hospitalité、つまり「歓待の歩み(pas)」=「歓待はない(pas)」と主張するのです。

つまり、永久平和の基礎となるホスピタリティやサービスで重視されるホスピタリティは、一般的に考えられているように、単に美しい営みではありません。カントが明記したように、ホスピタリティは「人間愛」の問題ではありません。そんなあやうい概念は学者の主張するものではありません。ホスピタリティは恐怖であり、不安であり、卑屈さであり、緊張感であり、矛盾であり、闘いなのです。ホスピタリティの語源が、ラテン語のhospesであり、見知らぬもの、敵としてのhostisあるいはhostilis、そして力としてのpetsに結びついていることは以前述べた通りです(デリダの議論ですが、もともとはバンヴェニストです)。

私はここから、自分の経験的研究と結びつけて、
サービスやおもてなしは闘いであると主張しました。その意味は、相互主観的な承認をめぐる闘争であり、弁証法的な自己の超克と生成であるということです。闘いのないホスピタリティは、他者を自らの世界に従属させ、他者の他者性を剥ぎ取っているのであり、もはやホスピタリティではありません。Réne Schérerが示したように、ホスピタリティとは他者を迎え入れることでありながら、その他者に迎えられることであり、自分を他者として生成することです。外部性としての聖なる他者と向き合い、自らが自らにとっての他者となること、これがホスピタリティなのです。

このホスピタリティが、現在の社会において、サービスという経済的な交換の関係においてどのような意味を持つのか? これを考え抜かなければなりません。上記のような根源的なホスピタリティは古代の文化であり、古代ですらも古びたものとして扱われたものであることは明らかですが、もはやサービスの文脈では意味がないのでしょうか? 私はそうは思いません。なぜなら人が他者と出会うという契機は変わらず我々に緊張をもたらすものであり、それがサービスの条件だからです。サービスの文脈でホスピタリティやおもてなしに関する議論が尽きないのは、人々がそこに何らかの神聖な意味を見出し、それを恐れを抱きながら求めているからであり、その不可能性を知っているからだと思います。そして何よりも今の社会に最も求められているのが、この本来の意味でのホスピタリティだからです。

このような議論を無視しながら、単に客を喜ばせるというような「ホスピタリティ」を語る理論は、単にサービスの理論として中途半端であるだけではなく、それ自身がホスピタリティを飼いならし無意味にする実践そのものなのです。そうではなく、ホスピタリティに関する理論は、ホスピタリティを実践しなければなりません。

「異文化コミュニケーション」という、自分にはほとんど言うべきことはないと思われるような授業がアサインされたわけですが、よく考えたら「ホスピタリティ」はまさに異文化間コミュニケーションの基礎ですし、私なりに独自の視点で授業を作れることに気付きました。このように実は自分に合っているのかもしれないことにアサインされること、いつもながらその慧眼には驚かされます… 授業では、まずはこのようなことを議論するところから始めようかと思います。

客はサービスの内部か外部か

先日のサービス学会のときに平本先生や佐藤くんの発表に関して、村上輝康先生と興味深いことを議論しましたので、整理しておきます。

まずサービスというものを、客や提供者(あるいは受益者)の主観性から出発すると理論が破綻するということを主張しました。それはサービスが価値共創であり、人々が相互作用を通じて様々な資源(それらの人々自身も資源である)を統合するというとき、主観性ではなく相互主観性の水準で捉えなければならないからです。Vargo & Luschが価値は「受益者が現象学的に決定する」というとき、フッサールの相互主観性の議論が想起されるわけですが、フッサールは(超越論的な意味での)主観性から出発して相互主観性を説明しようとして、一般的には不十分な結論に至ったように思います。つまり、結局他の人が見ているものと自分が見ているものが一致するということは前提でしかなく、それがどのように達成されるのかは説明しきれなかったように思います。相互主観性の水準の現象を説明するには、最初から相互主観性を前提に始めなければなりません(ここのブログで書いてきたように、組織論にとってルーチンについても同様の議論をしています)。

山内 裕, & 佐藤 那央. (2016). サービスデザイン再考. マーケティングジャーナル, 35(3), 64–74. (入手しにくいようですので、必要であればご連絡ください)

受益者や便益をモデルから切り出して外部に位置付けることは一つの有用な選択肢ではないかという話しがありました。上記のように、受益者自身も資源であるため、実践の内部として扱い得るし、そうするべきだというのが我々の主張です。一方で、受益者を外部として措定するということは、実は特に反論することなく受け入れることができます。なぜなら、その場の人々自身が、他の人がどのように評価するのかについては完全に知り得ないものとして扱う限りにおいて(相手の考えをおそるおそる探るなど)、その場の人々自身が受益者を外部性として直面し、その複雑性を縮減してなんとかやっているからです。そもそも我々はサービスという相互主観性に着目しているのであって、ルーマンに従えば個人の主観性はそのサービスの外部(システムの側ではなく環境の側)である必要があります。ですので、便益をモデルの外部に置くというのは、かなり鋭い判断というわけです。

しかし、この外部性自体は、彼らにとっても研究者にとっても不可知ではなく、経験的に相互主観性の水準で記述することが可能です。つまり、おそるおそる探る方法を記述できます。ちなみに
『「闘争」としてのサービス』でレヴィナスに依拠して他者の外部性を取り込もうとしたのは、この意味を強調したかったからでした。ただしこの外部性もあくまでも現前するということです。

何が外部で何が内部なのかというのは単純な切り分けではありませんね。基本的には理論の中に外部性を位置付ける余裕を持たないと、とてもキケンなものになってしまいます。闘争というのは外部性を研ぎ澄ませた概念ですが、そうではなく美しい全体性を主張する方がキケンなのです。

理論に偏りがあるということ

初めてAmazonにレビューをいただきました。かなり気に入らなかったようで厳しいコメントでした。これと同じようなフィードバックをもらうことがありますが、基本的には緊張感を強調しすぎる理論に偏りがあり、緊張感を排除したリラックスするようなサービスを軽視しているという批判です。この批判への回答を通して、興味深い構造が見えてくると思います。

まずデータに偏りがあるとか研究の目的に偏りがあるというのは、どんな論文や書籍でも無条件に言えるようなものですので(つまりこのような批判をする人自身の著作にもそのまま跳ね返ってきます)、ここでは理論に偏りがあるという部分にだけ答えたいと思います。この本はそもそも、サービスとは緊張感を排除するものであるという既存理論を偏ったものであると批判するために書いたものです。ですので、私の理論が偏っておりリラックスできるサービスを強調するべきだという批判は、そもそもこの本が批判したことをそのまま繰返しているわけです。

なぜ既存理論を批判したのかがどうもうまく伝わっていないので、説明したいと思います。まず、サービスの最も重要な概念は価値共創であるというところから出発します。もし客も含めた参与者が何らかの相互作用を通して価値を一緒に作るのだとすると、サービスの中心は人と人とのやりとりということになります。つまり、ある人が何か客観的なものを見ているという主観性ではなく、それぞれが互いにどう了解し合えるのかという相互主観性が、サービスかそうでないかを分ける基準となります。ある人がサービスを客観的に見て、その価値を主観的に判断しているのだとしても、その客観であるサービスに自分自身が入ってしまっているので、結局自分がどういう人なのかが問題となります。そうするとサービスにおいては、それぞれの人がどういう人なのかを試し見極めるような緊張感が生じます。これはある程度画一化されたファストフードでも、カジュアルなレストランでも同様です。

もし緊張感がないとすると、それは相手を自分が構成する世界の中に押し込めること、あるいは自分が相手の世界に押し込められることを意味します。つまり、相手を自分に従属した人として、ひとりの人だと認めないか、あるいは圧倒的な神様や王様のような相手に対して全面的に従属するかのどちらかです。このように、緊張感を排除するようなサービスの理論は、客のことを大事にしているように見えますが、実は客をひとりの人として扱うことを拒否しているということ、この本はこのことに対する批判です。ですので、私の理論が緊張感に偏っているというコメントは全くその通りですし、それが私の批判の意味だったということです。だからそもそもこの理論が批判している理論を繰り返すのではなく、正面からこの批判にどう答えるのかを示していただかなければなりません。

同様に、私の理論が現場のサービス実践から乖離しているのではないかという批判は、全くその逆です。客や従業員も緊張感の中で一緒に価値を作り上げようとしているのであって、緊張感を排除する理論はこれらの人々の実践を否定しているに等しいということです。

ところで理論のバランスというものがどういうものか、学者は考え抜かなければなりません。こういうサービスは緊張感があり、こういうサービスが緊張感がないというような理論は、考え抜かれたものかどうか疑問がある場合が多いです。多くの場合、これらの対立する理論をどのように切り分けるのかという基準が、その理論の外部にあるからです。特定のサービスを見たときに、それに緊張感があればこちらの理論をあてはめ、他方の場合は他方の理論をあてはめるというような恣意的で後付けの適用がなされ、結果的に何も説明しないばかりか、あたかも説明されたかのように見えるため実践を妨げる結果となります。

闘いのサービスとは「M (マゾ)」の理論か

私が『「闘争」としてのサービス』で「サービスとは闘いである」と主張するとき、一部でそれはM(マゾ)の理論だという誤解があると聞いています… 少し解説したいと思います。鮨屋で3万円も払って、職人に試されながら緊張しながら食べるということを示したとき、それが「M」だという結論になるのはある意味素直な考え方だと思います。たしかに、人は否定されることを求めている、と言えなくもありません。私が研究を発表するとき、全面的に同意され賞賛されると「こいつわかっていないな」と思ってしまいます。自分の研究を認めてもらうためには、否定されなければなりません(もちろんドキっとするような核心をついた否定です)。そして否定されると打ちのめされるわけです。つまり、打ちのめされることを求めているということになります。学者というのは何とも不幸な職業なのかといつも思います(真剣に勝負をしている職業はすべてそうだと思いますが)。

しかし、私の理論はMとは関係がありません。承認をめぐる闘いの前提は、対等なもの同士のせめぎあいです。対等であるとは、同じレベルの力(例えば資産や地位)を持っているということではなく、それぞれが他者に従属することなく自分で判断しているということです。そういう関係の中で人が出会うと、緊張感が生じ、自分の力を示すことになり、互いを試すということが起こるわけです。闘いがない場合には、相手から承認を得ることができません。少し危険な言い方をすると、客が試されるときMのような受け身の人が問題となっているのではなく、そこで勝負をする人、その瞬間に決断し自らに責任を持つ強い人(ニーチェ的か)が求められているわけです。一方的に奉仕されるサービスには満足できないだろうということです。

例えば、フロイトは人は快を求め不快を避ける(不快による興奮をやわらげる)という快原理とは別のより根源的な原理として、死の欲動という概念を持ち出しました。人が不快であるようなものを求めるということがそれにより説明されます。しかしながら、ここに一つの理論的難しさがあるように思います。つまり、人がある対象を観照しそれを求めるのか避けるのかという議論は、主体と客体を分離した上で、主観性を根拠としています。そのように主客を措定してしまうと、たしかに不快を求めるという結論になってしまいます(それ以外は自己イメージに依拠するぐらいしか選択肢はないでしょう)。

私は、基本的にはサービスとは相互主観性であると捉え、その理論は一環して相互主観性でなければならないと考えています。つまり、人が何かの対象を求めているという考え方ではなく、そもそも人が主体を展開するのは、相互主観性に依拠しているということです。ここで相互主観性とは闘いとして定式化しています。闘いを通して、人が主体を達成します。つまり、理論的な順序が逆なのです。主体があってからその主体が求める対象があるのではなく、対象(相互主観性)があってそれから主体が構築されることになります。このことを踏まえると、そもそも人が何を求めるのかという問題から出発するのではなく、そもそも人がどういう人なのかから問わなければなりません。だから、サービスとは要求を満たす活動ではなく、人が自己を獲得する過程ということになるわけです。

サービスデザインの限界とその超克

サービスデザインについて、博士課程の佐藤くんと論文を書きましたので、その要点だけ書いておきます(詳細は論文が出たらご紹介します)。いくつかのサービスデザインのテクストを再度詳細に読んでみたところ、現在議論されているサービスデザインには少なくとも2つの問題があると思います。つまり、(1)まず人間中心設計を掲げ「体験」のデザインが前提となっていること、(2)そして次に価値共創によって多様なステークホルダーが調和に逹するという前提です。

まず一つ目の問題です。ユーザの「体験」を重視していますが、よくない体験を避けるという以上のことが語られていません。サイロによって分断されている体験を統一する、顧客の視点に立っていないデザインを排除するなどです。そもそもポジティブにどういう「体験」を目指してデザインするべきかについては語り得ません。これは人間中心設計自体の問題です。Don Normanが言うように、人間中心設計によってよいデザインや失敗しないデザインは生まれるが、”great”なデザインは生まれないということに近いかもしれません。

そもそも「体験」はサービスのデザインにおいては適切ではないと思います。その理由は、あたかも一人の人の主観的な体験が問題になっているような印象を与えるからです。一人のユーザが目の前のプロダクトを見て使用している場合は、これでもなんとか語り得たかもしれませんが、サービスとは相互主観性ですので、デザインする対象がこのような主観性では問題が起こります。シンプルに言うと、まず主観性がありそれが求める客体があるのではなく、まず相互主観性がありそれから主体が生じると捉えた方が、サービスのデザインの可能性が広がるように思います。つまり客がどういう客であるかがデザインにおいて重要となります。

次の問題は、顧客との価値共創という概念によって、ステークホルダーが参加することで折り合いをつけ、顧客のために一貫したサービスを提供するという語られ方です。統一、円滑なコミュニケーション、デザインへの愛着や所有意識などのキラキラした言葉が並ぶ一方で、矛盾、緊張などの言葉が完全に排除されています。まずどういう調和が目指されているのかが曖昧です。多様な参加者が想定されているのであれば、その間の矛盾や緊張は排除できません。また、その調和にどのように到達できるのかが説明されていません。

この調和のある共創なり参加という概念に問題があります。シンプルに言うと、多様なステークホルダー(顧客も含むとしましょう)の声を一つの声に還元するというモデルです。このような一つの声に還元したモノローグは、多様な声が独立し互いに還元することなく、緊張感を持ちながら互いに挑戦しあうダイアローグとは全く異なるモデルです。このような一つの声への還元は原理的に不可能であるだけではなく、デザインとしての魅力を失う源泉となっています。ここでもバラバラの主観性から出発し調和させようとするのではなく、声がぶつかり合う相互主観性から出発する必要があります。

我々の意図はサービスデザイン自体を批判するということではなく、サービスデザインが従来のデザインから多くの言説を引き継いだので、本来の可能性を追求する道が塞がれてしまったということがもったいないという思いです。

人間中心設計について

複数の文脈で、IDEOのアプローチがSDL(Service Dominant Logic)かGDL(Goods Dominant Logic)かという議論を聞きましたので、少し自分の考えを共有したいと思います。Vargo先生が京都に来られたときに、韓国の学会でBill Moggridgeと同じ場で話しをして、そこでIDEOがやってきたこととSDLが同じであることを議論したということを話されました。ユーザの参加を重視することやユーザの視点でデザインすることと、価値が受益者と一緒に共創されることは見た目には一致するところが多いように見えます。

しかし、SDLが人間中心設計と一致するというというのは短絡すぎる結論だと思います。人間中心設計はやはり「中心」をどこにどのように定義するのかという点で、何らかの基礎付けを前提としているように見えますが(実践している方々はそうでない人が多いと思いますが理論としてという意味です)、SDLの議論の前提はそのような基礎付けを排除しようとする動きがその根本にあると思います(もちろん完全にそれに成功しているわけではありませんが)。

SDLは置いておいて、私はサービスの領域に関しては(実はサービスに限らないのですが)、人間中心設計という考え方では問題があるように思います。Don Normanがエモーショナル・デザインという言葉を用いて、わかりやすさ、ストレスのなさ、ユーザのエンパワーメントなどを根本原理とする人間中心設計を否定して、その「正反対」のアプローチを説いたことが示唆的なように思います。例えば、サービスでは顧客にわかりやすいとその価値を毀損します。京都の料理屋で軸がかかっていますが、これは完全に読めないことが重要です。鮨屋ではメニュー表を置きません。客を(弁証法的に)否定することがサービスにとって重要なのです。もちろん客は馬鹿にされたり、いじめられているわけではありませんし、たんにわかりにくくするということでもありません。こう言ってよければ、客を脱-中心化するということです。

この弁証法的な緊張感のある価値というのは、Normanのいう内省レベルとは異なります。敷居の高いサービスを利用するときの自己イメージやプライドを強調する議論があります。そのような高い敷居を越えることができるという自己イメージです。しかし、実際は真剣にサービスに対峙する対等なもの同士の間のせめぎ合いと捉えるべきでしょう(もちろん自己イメージは重要だと思いますが、それが原理となっているとは言えないという意味です)。サービスとその受益者を主客分離をして心理学的に考察した場合は、自己イメージというような議論になるのだろうと思いますが、この場合のサービスの価値はやはり相互行為であり、相互主観性にあるでしょう。

このあたりについては拙書のサービスデザインところで書きましたが、現在さらに佐藤くんと論文を書いていますので、まとまったらご報告したいと思います。IDEOの話しからNormanの話しにすりかわってしまいましたが、人間中心設計の理論については議論の余地があると思います。私はIDEOに詳しいわけでも、人間中心設計の専門家でもないので、色々な方々と議論したいところです。

闘争の概念について

「闘争」の概念が多くの人にとってとっつきにくいし、誤解されやすいということがわかってきました。実のところ私は「また古くさい概念を持ち出してどうするんだ」と言われることの方を懸念していました。重要だからと思ってあえて主張したのは個人的にはリスクを取ったつもりだったのです。

闘争の概念は学問の初期から常に一つの流れとして存在していたと思います(ヘラクレイトスなど)。ホッブス、ヘーゲル、マルクス、ニーチェなどに流れていきます。歴史上、理論が発展したとき、闘争の概念との相互作用はつねにあったように思います。まず私はヘーゲルに理論の基盤を求めました。それは、間主観性を基礎としてサービスの理論を構築する必要があったこと、そしてそれに人のあり方を結びつけることができる視座として、ヘーゲルの弁証法は特に魅力的に感じたからです。人が自己を獲得するためには、他者との闘争を経なければならないということです。

しかしそれだけでは、抽象的すぎるかもしれません。サービスの文化について議論するとき特に依拠するのが、文化が闘争の賭金であることを示したブルデューです。また、異人厚遇を議論するために文化人類学の観点から依拠したレヴィ=ストロースやモースのテーゼは、闘争と贈与の連続性を強調するものです。ホスピタリティ(迎え入れ)を語るにはレヴィナスを避けては通れませんが、何よりも平和や正義を語ったレヴィナスは闘いをその根本に据えたわけです。サービスという社会的関係を説明するのに、その根底には闘争があるということは逆転の発想ではありますが、一応考え抜いてのことなのです…

たしかに、様々な闘争の関係の微妙な差異について必ずしも明確に議論していません。私は真剣勝負している客と提供者の関係性を闘争ということで捉えたのですが、そのとき相手を打ち負かしてやろうと思っている人もいますし、相手を尊敬して対峙している人、慣れない場所でドキドキしている人もいます。闘争と言うとマルクス的な政治的な闘争などに結びつけられるかもしれませんが、それとの区別は完全に明確にはなっていないかもしれません(そのようなゆらぎがあることは自覚しています…)。

次の研究の糧にしたいと思います。色々フィードバックいただいた方々、ありがとうございました。何とか説明をしようとして、どんどん深みにはまってしまっている観がありますが、自分では少しずつ前に進んでいるつもりです。

「サービスとは闘いである」の意味

ようやく『「闘争」としてのサービス』の第2刷が仕上がりました。さて、「サービスとは闘いである」というテーゼが誤解されやすいということに今さら気付きましたので、少し補足したいと思います。まずこのテーゼが否定したいのは、既存のサービスの言説で、心のこもった奉仕が必要とか、本当の笑顔が必要とか、神さまであるお客様を満足させるというような言説です。実はこれは、現在の日本における「ロボット化」したサービス(すし匠中澤親方の言葉)と表裏一体でもあります。つまり、笑顔で、丁寧な言葉使いで、フレンドリーに応対しているが、全く人間味がなく、人々がロボットになっているということです。あるいは、金を払ったんだから、座っていたら気持ちよくさせてくれるというサービスの「風俗化」という側面もあります。サービスの理論はその前提とのところでこれを正としているので、現時点ではこの理論を否定するものは見あたりません。

そこで研究するにあたっては、なぜこのような理論が作り上げられ、保持されているのかということに興味が集まります。基本的にサービスにおいては人と人が、特に見しらぬ人同士が出会い、取引をします。相手のことがわからない中で、相手が欲しいもの、相手が提供できるものなどを探り合いながら、サービスを達成します。そうすると、どうしても相手のことがわからないという緊張感が生まれます。その緊張感を打ち消すために、笑顔、心遣い、丁寧さ、フレンドリーさなどが持ち出されます。つまり、既存のサービスの理論も、その基本関係が緊張感のある闘いであるということは暗黙のうちに理解しているのです。

ではなぜサービスが闘いにならざるをえないのか? そこにはもっと積極的な理由があります。それは、現在サービス理論において中心的な概念である「顧客満足度」というものを正しく理解するところから始めなければなりません。「顧客満足度」というものがあるとすると(個人的にはそういう概念は不要だと思うが)、それはニーズや要求を満たすとか、顧客の問題を取り除くとか、そういうことから得られるものはごく表面的であるということです。サービスは人と人が出会い価値を共創するものである以上、そこで問題になるのはその人の存在です。つまり、その人がどういう人なのかです。

そこで持ち出したのが、ヘーゲルの「承認への闘い」です。他の人から承認を得るということは、闘いに挑むということになります。上記の笑顔やフレンドリーさによって、この闘いを排除するわけですが、そうすると相互承認は起こりようもありません。取引は行われるが、そこで人と人が出会う意味はなく、人々はロボットとしてやりとりすることになります。闘いの概念を全面的に持ち出すことの意味は、この批判をとことん突き付めて、根本概念として闘いを据えることで、サービスをよりよく理解できるだろうということです。これが「サービスとは闘いである」というテーゼの意味です。

つまり、サービスにおいて相手を打ち負かすような関係性のようなものを支持しているわけではありません(ちなみに、鮨屋のサービスを正解だと主張しているわけではありません)。本当に真心をこめてサービスしている素晴しいプロフェッショナルの方々は、客に一方的に奉仕しているのではなく、客と真剣勝負をしていると言うべきだと思います。サービスをデザインするとき、単にニーズや要求を満たすとか、顧客にとっての問題を排除するというようなことだけを目指すのであれば、おそらく本来サービスのもつ価値のごく一部しか実現できていないということだと思います。