Destructured
Yutaka Yamauchi

2018

博士論文の基準

今年は3人の方が博士論文を提出する予定です。博士論文には最低限満たさなければならない基準があります。最後のひとふんばりを後押しするためにも、共有しておきたいと思います。

博士論文として成立するための最低条件は、(我々の領域の)ジャーナル論文で必ず必要になる「理論的貢献」があるということです。データが多少足りないとか、分析が少し甘いというのは、自分でわかっているなら直すことも難しくはありませんし、その方の次のキャリアでなんとでもなることだと思います。しかし「理論的貢献」を書けない場合は、その後のキャリアでかなり苦労するだろうと思いますので、それが最低限の基準となります。もちろんそれ以前にこれがないとそもそも博士論文としての体裁がないということです。

理論的な貢献は簡単に言えば、自分が貢献する対象である既存の理論の問題点を指摘し、それを乗り越える新しい視座を提供するということです。我々の領域(組織論)では、経験的分析が何か新しいことを発見したとか、説明するために変数を追加したとか、これまでの方法が達成していた精度を改良したということでは論文にならず、理論的な問題の解決が必要です。ここで重要なのは、既存理論の問題点というのが、その既存理論に内在的でなければならないということです。詳しくは
以前にこちらに書きました。

内在的ではない問題というのが大体2種類ぐらいあります。ひとつは、既存理論とは関係のない別の理論を横に持ってきて、既存理論に特定の視点が抜けていると指摘するものです。既存理論は自分が設定する範囲で問題なく成立しているときに、単に新しい視座を横に置いても意味がありません。もし新しい理論的視座を持ってきて外から問題を指摘するだけでいいなら、無数にあるものの中からどんな理論でも持ってきて無数の論文でも書けてしまいますが、それではジャーナルには通らないということです。そうではなく、既存理論が成立していない、失敗しているということを示さないといけません。

二つ目の問題は、既存理論が経験的な事例を説明できないとか、特定の事例しか説明していないというものです。問題はあくまで理論上の問題である必要がありますが、経験的な分析における問題は、理論の問題ではありません。もし何かを説明できないとしたら、それによって既存理論がどういう内在的な問題に直面しているのかを説明しなければなりません。既存理論が説明していないことは無数にありますので、それを指摘して論文が成立するのであれば、無数の論文が成立することになってしまいます。

内在的な問題というのは、外から何も持ち込まなくても、既存理論自体の中に存在している問題です。多くの場合は、既存理論が持ち込む前提(ほとんどの場合明確にされない)の中に問題の萌芽があり、その既存理論が主張していることと食い違っていたり、主張が中途半端で終らざるをえない状況であったり、問題を隠すために別の概念を持ってきて蓋をするようなことが起こっているということです。これは既存の論文には文章として書かれていませんので、自分で読み解いて示さなければなりません。論文を読むということは、書かれていないことを炙り出すということです。矛盾するようですが、そのためには別の理論的視座を持ち込むことが有効ですが、この視座はあくまでも既存理論の問題を炙り出し解決するために利用するものです。

その上でこれをするひとつのテンプレートは、既存理論に内在する二元論を批判し、それを克服する視座を提示するというものです。そういうテンプレートを利用した指導はよくないとも思いますが、後々にその方が成長する中でそのテンプレートを乗り越えていただくことを準備するという意味では、それでいいと思います。そのときの注意点としては、二元論は完全に解体してしまうと無理が出てしまい、それに対応するために別の二元論を引き寄せてしまいますので、安易に否定せず丁寧に議論を積み上げることです。

以上のことはジャーナル論文でも最低限必要なことだと思います。もちろんレビュアーもエディターも完全に一致した基準でレビューしているわけではありませんので、ふと通ってしまう論文もありますが、それは自分が基準を満たさないことの言い訳にはなりません。もちろん領域によって、また教員によって別の基準があると思いますが、教員は誰しも明確な基準を持って指導・評価していますので、学生さんはそれを理解することが必要だと思います(それほど違わないと思います)。

もちろん、教員の想定をはるかに越える博士論文が出てくる可能性はあります。基準とはそういう論文によって無意味になるときのためにあるものだと思います。

# 追記

誤解がありましたので補足します。実際に論文を書くときには、「既存理論は失敗している」とは書きません。他の人の研究を直接的に批判しても得るものがありませんので、できるだけポジティブに書きます。逆に、論文を読むときには、書かれていない本当に言いたいことを読み解かなければなりません。

ブックチャプター: 最初か最後か

ここ数ヶ月スランプ状態ですが、いくつか章を執筆した書籍が出ました。スランプは年内には状況を好転させたいと思います。

Yamauchi, Y. (2018). Service as Intersubjective Struggle, In Maglio, P. P., Kieliszewski, C. A., Spohrer, J. C., Lyons, K., Patricio, L. & Sawatani, Y. (Eds.). Handbook of service science, Volume II. New York: Springer.
https://www.amazon.co.jp/dp/3319985116
https://www.springer.com/us/book/9783319985114

鮨屋の研究から始まった「サービスとは闘いである」というテーゼを論じたものです。このような大きな研究プログラムを論じた論文はジャーナルには載せにくく、自分で本を書くか、このような本の章にするかがベストなアウトレットとなります。このハンドブックはサービス科学のコミュニティで中心的なものですので、ちょうどいい機会でした。しかしながら、私の章は一番最後に申訳なさそうに置かれてしまいました。内容が他の章で議論されているようなものと全く異なる、というか完全に反対の議論をしているので、ハンドブックに収まりきらなかったのだろうと想像しています。わかっていたこととは言えとても残念です。しかしその前にそもそも価格が高すぎて誰も買わないだろうと思います。

Holt, R., & Yamauchi, Y. (2018). Craft, Design and Nostalgia in Modern Japan–The Case of Sushi. In E. Bell, G. Mangia, S. Taylor, & M. L. Toraldo, The Organization of Craft Work Identities, Meanings and Materiality. Routledge, London.
https://www.amazon.co.jp/dp/1138636665
https://www.routledge.com/The-Organization-of-Craft-Work-Identities-Meanings-and-Materiality/Bell-Mangia-Taylor-Toraldo/p/book/9781138636668

これはRobin Holtと一緒にやっているクラフトのプロジェクトで、ひとまず鮨に焦点をあてて書いたものです。最近クラフトへの注目が集まっていて、その動きをさらに加速させようとする本です。まだ研究の成果が出ておらず、まず我々の考えていることをまとめる機会として書きました。こちらはなんと一番最初の章になっています。研究者コミュニティの中心にいるRobinの地位を反映しているのは疑いないのですが、独自の成果が出ていないため一般的なことしか書けなかったということの裏返しでもあります。ただし、少しマシとは言え誰も買わないような値段です。

自分の研究が他の人が考えていることを180度逆転させてしまう内容であり、そのままではほとんど理解されないことはよくわかっているのですが、それをわかりやすくかつ利用可能な形で書けない自分の限界を乗り越えることができません。なんとかがんばって書き続けたいと思います。

本当の自分を追い求めること

学部ゼミで議論したことを共有したいと思います。Boltanski & Chiapelloの『資本主義の新たな精神』をみんなで読み直していて、真正性(authenticity)の要求について議論が盛り上がりました。人々は惰性で生きること、自分の活動を他者に管理されることなどを批判し、本当の自分を生きているという真正性を求めるのですが、この真正性自身が同時に批判にさらされます。その批判は二重にありうるだろうと思います。一つは簡単で、真正性を求めようとすると、非真正なものを喜ぶ人々を馬鹿にすることになります。当然ながら馬鹿にされた人は最初はそれに甘んじたとしても、数年経つとうんざりします。トランプ大統領の支持者の状態がそれだと思います。

もう一方で、真正性を求めるという実存主義的な生き方は、その内部から欺瞞を暴かれます。それは、真正性が本質的、起源的、純粋なものへの幻想に囚われ、自らそういう本質や起源や純粋な意味を構築してしてしまうという欺瞞です。これが脱構築が明かにしたことでした。60年代後半に人々が自分の真正性を要求したとき、過去に戻るということは選択肢はありませんでした。何か絶対的な起源や本質(自分が生まれた社会的な位置など)に依拠して真正性を獲得すること自体は、何よりもブルジョワ的であり嫌悪の対象でしかなかったのでしょう。一方でブルジョワ的な価値観は自分を律して禁欲的に成功を追い求める純粋な姿でもあり、このようなエリート的な重みも時代遅れに感じられたのだろうと思います。自分の中に閉じて純粋な内面を追求するというような、他のものを参照することなく真正な価値を持つというようなエリート的な実践も、単にひとつの政治的な身振りにすぎないことが明らかになるわけです。

さて重要なのは、1968年の人々の異議申し立てが、このように真正性への探究とそれの批判を両義的に含んでいるということです。ひとつは、その時期の若者がエリートになるつもりで大学に行っても、周りがそういう人ばかりで自分が何ら特別ではない現実に直面したとき、自分の個性をどのように表現するのかという意味で真正性を求めたわけです。この個性はその後の消費文化の発展により、唯一無二のブランド品を身につけ、行き届いたサービスを享受することである程度回収されていったとされますが、それはしばらくして限界に逹しました。一方で、1968年の運動は脱構築などの考え方に基づいてもいて、つまり真正性を批判する精神を基礎としていました。真正性を求めながら、それに何の根拠もないということを実感したのだとすると、ものすごい不安にさらされただろうと想像します(当時をよく知らないのに勝手なことを言ってすみません)。

そしてその社会が生み出すのが、背後に隠された本質や起源に依拠せず、自身を閉じて内面に逃げ込むのでもなく、横並びに互いの差異だけから意味を作り出すようなネットワーク型の社会形態でした。人々とつながり、フォロワー数を増やすことで成功するというモデルです。ここで重要なことは、それでも真正性の要求はなくならないということでしょう。それが幻想であることがわかっていても、むしろ幻想であるとわかっているからこそ、それへの渇望が高まります。そして、真正性への渇望が高まるほど、それが幻想であることを感じ取り、人々の不安が高まります。これは現在も続いているように思います。

さて、このような真正性に対するあこがれと批判の両義性は、現在の状況でも(というよりもいつの時代でも)現実性を持っていると思います。最近は、芸術、伝統工芸、サブカルチャー、ホスピタリティが価値の鉱脈として注目を集めていますが、これは単にそれらの背後にある本質(歴史、伝統、文化、人間性など)を求めているということではなく、本質が幻想であるとわかりながらそれを求めているのが正しい理解だと思います。だから伝統的なものはそのままでは単に古臭いものとしてしか映りません。伝統的でありながら伝統を破壊しようとする実践にのみ、真正性が認められうるということになります。笑顔のホスピタリティは一瞬にして価値がなくなり、むしろリスクを取ってその規範を裏切るようなものに真正な価値が感じられるようになります。

ということで、この両義性を理解しないと価値を生み出すことはできません(だからBoltanski & Chiapelloの保守的な結論には賛成することはできません)。矛盾するものを節合していくこと、一方を固定化(再領土化)したときに、次にそれを解体(脱領土化)すること、そういう微妙なところを感じ取り切り開いていく実践が求められているように思います。学部生をどんどん鍛え上げて、そういうことができる人材を育てたいと思います。

人間〈脱〉中心: ことしも「組織文化論」

これまで人間中心設計の理論的問題を指摘し「人間-脱-中心設計(human de-centered design)」を提唱してきました。人間を中心にすることを批判するなんてケシカランという反応が多かったのですが、これは何も唐突なものではなく、主体および人間を脱中心化しようとする学問のここ40年ぐらいの流れに乗っているだけの話しです。そのような内容をカバーするために、後期には「組織文化論」(経済学研究科)を開講します。文化を扱うにあたって、やはり主体の問題が中心となります。

最初は文化とは何かを議論します。基本的には、EliasやBourdieuを見ながら、文化とは自己呈示あるいは差異化=卓越化の過程であるという捉え方から始まります。しかしながら、Bourdieuの枠組み自体が現在と合わないということで、そもそもモダニズムとは何かの議論をします。そこから、個人が理性をもって考えて行動するという近代特有の考え方の源泉を見て、そこに主体概念のあやうさがあることを議論します。そこからポストコロニアルの議論まで一気に進めます。その後で、組織論に寄せてWeickのセンスメイキングを議論し、そこからナラティブ、テクスト、言説などに戻ります。そこから実践論を経て、マテリアリティに注目する理論へとつなげていきます。ということで、同じような議論を違う観点から3周ぐらいします。

さて、近年は社会科学全体的にマテリアリティ(物質性)を重視し、人間を脱中心化する議論が進んでいます。特に、主体と客体が分離する前の状態から議論を始めるもの(Baradなど)、そもそも人間に特権を与えるのではなく動物や非生物的なものにも行為主体性(agency)を与えようという議論(Latourなど)があります。しかしながら、主体を完全に回避した議論は、経験的な分析において結局、データ(客体=対象)を解釈している研究者(主体)が措定され、主客分離を温存してしまう危険性があります。そうではなく、主体が脱中心化されたこと自体が、その主体にとっての関心事であることを研究した方が建設的であると考えています。ここでエスノメソドロジーが有効な視座となります。私の論文のほとんどが、再帰性あるいは相互反映性(reflexivity)を中心に据えているのは、そのためです。

具体的には、アクターネットワーク理論に見られるように、非生物的なモノに行為主体性を与えるという議論があります。従来の行為主体性の考え方のもとで、モノも「意図」を持って行為しているというと、けったいな主張に見えます。二段階ほどの議論が必要です。まず意図を持って一方的に世界に働きかけるという主体を解体しようということですので、「意図」が脱中心化されます。しかしそうだとすると、単に意図のない形で他のアクターの行為に影響を与えるということ(たとえば意図せざる効果)が、行為主体性なのかというともちろんそうではありません。そもそもある特定のアクター(ヒトもモノも含む)が他のアクターに影響を与えているという考え方自体が否定されています。むしろ、何らかのアクターがあるのではなく、まずつながりがあるのであって、行為主体性はアクターにではなくそのつながりにあるのです。逆にいうと、人間だけではなく非生物的なモノに行為主体性を認めるというのは、ただそれだけのことです(だと思います)。

そうすると、もう少し積極的に人の行為を捉えることができると思います。行為はすでに様々なつながり(作動配列=アジャンスマン)に投げ込まれていますし、それによって意味をもち、また可能となっています。人が意図を持って行為をすること自体を否定する必要はなく、単にその意図もアジャンスマンであるということであり、行為をしている人はつながりから切り離されて理性だけで思考している存在ではなく、人の内部と外部の様々な異質なもの(物質的なモノ、言説など)の中でなんとか構成されているということです。この枠組みにおいて、人が行為をなすということは、既存の支配的なアジャンスマンを前に逃走しながらそれをゆさぶる、つまり「逃走線」を引くことでシステムを逃走させることになります(Deleuze)。これが脱中心化された上で、人がイノベーションを生み出す地点ではないでしょうか? 主体が解放されて意志をもって新しい社会を構築していくことが人間中心だとすると、これはとても現実的ではありません。

デザインとは社会の外部性を内部に節合することと主張してきましたが、このデザインの行為主体性とはそのようなものと考えています。デザイナーという主体を完全に排除する必要はありません。デザインに外部性が必要であることは、消極的にはそこにしか価値が残されていないからですが、積極的には社会に亀裂を入れゆさぶるということがデザインという言葉に込められた意味だろうということです。内部に節合するというのは、モダニズムの芸術のように社会の外に位置するエリート主義、つまり距離を取って自由に発想している天才的個人ではなく、社会の中に投げ込まれつつ、逃走しながら社会をゆさぶるということです。そうすると最近よく見られる、革新的な「アイデア」に還元してしまうようなデザインの考え方は、古臭い主客分離をより強固にしてしまうために、批判せざるを得ません。

昨年は「
組織文化論」を正式に履修してくれた経済学研究科の学生はひとりだけでした。今年は誰も履修しなければ開講できないかもしれません(部局、大学限らず、どなたでも大歓迎です)。自分の授業すらデザインできないことに絶望を感じるのですが、実はそれがデザインを考える原動力でもあります。

またまた子供を連れてカリフォルニア

恒例の夏のカリフォルニアです。子供の夏休みの間を最大限活用して丸1ヶ月滞在です。残すところ約10日となりました。

今年はとても考えさせられる年です。こちらに来る直前に学部で所属した石田亨先生の研究室25周年の合宿に参加しましたが、20年来の同級生や前後の先輩後輩の輝かしい成功を見て、自分の人生を振り返り自信喪失とこれらの自分のキャリアについて奮起した次第です。その前にUCLA時代の同級生(厳密には先輩)が訪問してくれました。そして今年の夏は子供を連れてUCLAの引退した恩師と、そこへ行く途中に住んでいる同級生(厳密には先輩)のところを訪問しました。みなさんお会いするのは12年ぶりぐらいです。またPARCでの最初の上司 Danny Bobrowとメンター Gitti Jordan、博論のコミッティーに入っていただいたChuck Goodwin先生などお会いする機会を得ず亡くなった方々もおられます。40代に入ると自分の過去を振り返るタイミングが来るようです。そこからどれだけ次の20年を前向きに進めるのかが問われているような気がします。


さて、米国にいる間、私は仕事をしなければならないので、子供はサマーキャンプに通っています。新しい場所で全然知らない人々の中に入っていくのはしんどいと思いますが、子供なりになんとか楽しもうとがんばってくれています。今ではどんなところに連れて行っても、すぐに抵抗なく入って行けるようになりました。自分ならできないだろうなと思うと本当に関心しますし、その分自分もそれ以上にがんばらなければとプレッシャーを受けています。子供二人を連れてのワンオペですが、子供たちが慣れてきたのでずいぶん助けられています。

サマーキャンプについて少し書いておきたいと思います。現地でも夏休みの間に子供を預けて仕事をするために、多くのサマーキャンプが用意されています。ベイエリアだけで400以上のキャンプがあります。ご興味があれば
こちらから検索できます。我々の場合は、2年離れた兄妹がいるので、両方を受け入れてくれるところに絞ります。だいたいSTEM教育、Art、クラフト、スポーツなどテーマがあるので、子供にあったものを選びます。今回は、クラフト、コーディング、ロボティックス、アートにしました。基本的に夏休みの自由研究はサマーキャンプで完成させることをミッションにしています... 昨年は木工で剣、今年はミシンでシャツを作りました。

サマーキャンプは
1週間(月-金)でワンセットになっているものが多いです。4週間半の滞在で、4つのキャンプを体験できます。基本的には9時から3時あるいは4時まで預かってくれます。extended careというのを購入すると、8時から5時ぐらいまでいけます。子供を送り届けた後すぐにすぐに戻って仕事をして、合間に買い物、洗濯、夕食の準備などをします。あっと言う間に、お迎えの時間となります。打ち合わせもランチをかねて短時間で済ませるように工夫しなければなりません。自分が倒れたり事故に合うと、子供が二人で取り残されてしまうという緊張感はありますが、そういう緊張感のある生活も楽しみの一つです。

おかげさまで仕事もできて、子供も成長するという充実した夏を過すことができます。我々研究者は海外に行かなければ色々な意味でキャリアが終ってしまいますが、ほとんどの方が共働きの現在の環境では家族に負担をかけますので、ある程度長期で行くのはなかなか難しい現実があります。だからといって諦めることもできないので、これまで子供を連れて米国、デンマーク、シンガポールなど色々な国に滞在しましたが、なんとでもなるということがわかりました。


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主客の弁証法: 京大変人講座から

金曜日の京大変人講座富田直秀先生の話しがとても面白かったのですが、ちょうどその前の週にエストニアのEGOSで発表したかなり似た内容だったので、自分の中でもはっとしました(EGOSではサービスにおける「まなざし」の研究を発表しました)。なんとなくわかったけど完全にはわからなかったという声を多く聞きましたので、私なりの説明をしたいと思います。もちろん私と富田先生が考えていることは同じではありませんが、理解するための参考にはなればと思います。ところで、今回の越前屋俵太さんはこれまでの中で一番キレがあったと思います。このようにはっきりと割り切れない議論のとき、俵太さんのポエティックな力が生きるように思います。

富田先生は、不安でナースコールを鳴らす患者さんは、看護師さんがその手をそっとにぎってあげることで安心されますが、手をにぎるということは、相手の手をにぎる行為であるだけではなく、相手の手ににぎられる関係にもなることを話されました。私の理解はこういうことです。自分が相手の手をにぎる主体(subject)でありながら、相手に自分の手をにぎられる客体(object)である存在となります。そして看護師さんに手をにぎってもらって安心するということは、必ずしも何かの調和の取れた安心の状態であるのではなく、相手にとって自分が客体化され、自分の世界が他有化(alienate)されるという緊張感のある関係性を含むと思います。手をにぎってもらうとき「ハッ」という衝撃があるのではないでしょうか? 手をにぎろうとする看護師さんも同様です(たとえ小さくても)。しかしこの他者(看護師さん)のやさしさを感じることで、緊張感を乗り越えて安心だと思われるようなものに到達する(ように感じる)のではないでしょうか? 逆に、この緊張感がないとき、安心を感じることはないように思います。

私自身の研究では、これをJ-P サルトルの主客の弁証法で説明しています。廊下から鍵穴を通して部屋を覗いている人は完全な主体の状態であると言えます。つまり自分がその世界を完全に構成し、その世界の中にひたすら浸っている状態です。そこに廊下から足音が聞こえたとしましょう。そのとき、その人は自分が見られてしまったという衝撃的な羞恥を感じます。自分が完全に浸っていた自分の世界がその足音の方に流れ出し、もはや自分の世界が他有化されます。廊下の先の「まなざし」によって、自分が客体にされてしまった体験です。人は他者によって客体化される中でなんとか自分をとり集めて主体を回復しようと苦悩します。この主体としての自分と客体としての自分の間には埋めることのできない溝があります。サルトルはそれが人間の苦悩を導くとともに、それこそが人間の自由を可能にするというような形で根源的に捉えます。

私の研究をよく知っている方は、これをサービス理論に適用することの含意に気付いていただけると思います。サービスは定義として価値共創ですので人間同士の関係を含みます。そのとき、むしろこの主客の溝において苦悩し自分を取り戻すということ、自分を証明するということがサービスにおいて重要とならないはずはありません。一方で、主体としての潜在的ニーズを満たされるということが、サービスにおいてそれほど根源的ではないということです(それが重要ではないという意味ではありません)。しかし今回はサービスの話しはおいておきましょう。

富田先生は、名詞ではなく動詞で捉えようということを強調されました。名詞ということは客体として捉えるということだと言われていたように解釈しました。特に、自分や他者を客体として捉えるということです。動詞であるとは、客体と主体の間の溝に直面し苦悩し、それからなんとか自分を取り集めようとする動き(それは必ず失敗する)だろうと思います。そして、現在の医療や科学が名詞に囚われ、客体の中で議論を閉じているという批判がありました。手をにぎることをマニュアル化して看護師さんが都度患者の手をにぎったとすると、患者の手はもはや客体でしかありませんし、患者さんにとっても看護師の手は客体でしかありません。そこには主客の間の緊張感がありませんし、安心することができなくなります。さらに言うと、医師は患者から自分を切り離し患者を客体(object=モノ)として捉え、患者も一方的に治療してもらう主体性のない客体になり、その中で第三者的・超越的な科学者が治療法を生み出すという構造です。科学者の努力は尊敬しますが、医療全体を見たときの問題です。

少し混乱があったのは、見られている自分を意識しすぎているという話しです。見られていることを意識して行為をすることは、同様に自身を客体として捉えているということであり、本来の自分を失うという話しでした(ハイデガー的主題でしょうか)。単に素直にやさしいということと、他者からやさしいと思われている自分であること(他者の目を気にして席を譲るなど)の違いは、後者には他者に動かされているのであり、主客の間で苦悩しなんとか自分を取り集める動きがないということでしょう。一見すると、前者のように素直にやさしくあるということは自然に調和の取れた単純な構造に見えます。私はそうは思いません。やさしいということは、やはり苦悩の中で自分をなんとか取り集める動きで初めて生れるのではないでしょうか。客体が問題とならない調和の取れたプライベートな領域、客体化される中で自分を証明する行為を取るパブリックな領域、そして客体化されたまま客体と関わりあうソーシャルな領域、この3つを分けて考えないといけないと思います。3つめでは「やさしさ」は達成できないのはあきらかです。1つめには自然な「やさしさ」があるように見えますが、そうではないように思います(それはむしろ家族の間の親しさでしょうか)。

富田先生が、名詞・客体として捉えることも必要であるということを最後に強調されました。これは、客体であるということが苦悩を生むのであれば、それを避ければいいというのでは本末転倒だということだろうと思います。人が主客の緊張感の間でなんとか自分を取り集めるという苦悩は、がんばって避けるものではなく、むしろそれを引き受けるということが重要であるということを示唆されているのだと思います。

このような理論は、ブルジョワ的な価値観を残しているというような批判がありえます。自らに課す厳しさ、微妙な違いがわかるという自負、社会をリードするという意識で大衆を馬鹿にしてしまう性向など、ブルジョワ的なカッコよさです。現在の組織論は、M. フーコーなど主体概念を避ける理論、B. ラトゥール、K. バラッドなど人間概念を避ける理論が流行っているのですが、その背景にはブルジョワ的な古臭い価値への嫌悪を感じます。私は確固として下に横たわったような主体という近代の幻想を解体することは率先してやってきましたが、だからと言って主体概念を完全に手放してしまうのではなく、むしろ主客の間の苦悩を捉える方が面白いのではないかと考えています。そしてサービスという極度に資本主義的で現代的な主題にそれを持ち込むことで、軽やかに(ブルジョワ的ではない形で)これを議論できるのではないかと思います。今はブルジョワ批判が逆にエリート主義になる時代です。しかしまだまだ先は長いです。

コンピュータと文化

先日、文化のデザインはITサービスとかコンピュータのハードウェアビジネスとは関係ないですねとコメントをいただきました。それで少し考えていたことがあります。私は高校生のときにXerox Palo Alto Research Center (PARC)に憧れてコンピュータサイエンスを目指して、そのあとでコンピュータサイエンスをあきらめて経営学に進んだ後にPARCに就職したという変な因縁があるのですが、そもそもなぜPARCに憧れたのかがなんとなく今になってわかる気がします。パーソナルコンピュータを作ったとか、イーサネットやウィンドウシステムを発明したとか、マウスを実用化したとか新しい技術に憧れたのではなく、その当時の文化に憧れたのです。ということをEntitled OpinionsでFred Turnerの話しを聞いていて理解しました。

PARCができたのが1970年です。60年代後半から70年代前半のカウンターカルチャー(ベトナム反戦運動、ヒッピーなど)の文化の真っ最中です。Steve JobsがWhole Earth Catalogueにハマったのは本人の話しでよく知られるようになりましたが、これがカウンターカルチャー(特にヒッピー)の象徴でもありました。しかしながら、コンピュータという人々を管理する技術だと捉えられていたものの産業の形成に、なぜカウンターカルチャーの人々が担ったのかは逆説的です。

それまでのコンピュータはメインフレームにしてもミニコンピュータにしても、大きな機械があってそれを分けあって使うというモデルでした。タイムシェアリングという概念が当初人々を魅了したのですが、それは中央の資源をみんなで時間を細かくわりあてて使いましょうという感じでした。そのような中央集権的なモデルは、当時のカウンターカルチャーが対抗していた権力にフィットしました。そこで若者はみんなコンピューティングを民主化することに熱狂したのだと思います。パーソナルコンピュータというのはコンピューティングを個人にもたらすという文化的な革命だったのです。私が学生のころに、神戸大学の金井先生が、クライアントサービスというのは面白い、末端の弱いコンピュータの方がクライアント(客)で、中央の強力なコンピュータがサーバーとして奉仕をするという逆転だとおっしゃっていたのを思い出しました。

この民主化の思想は、Whole Earth Catalogueのように、人々に自分で生きていくために自分のために使える「ツール」を用意するという思想とも共鳴したのだろうと思います。誰かに頼るとか、大きな組織の一部であるということを捨てて、自分で作るというハッカーの文化もそれに関連します。PARCの研究者はこの思想の流れで、分散コンピューティングを理念としてパーソナルコンピュータAltoを開発しました。一方でそれはあくまでもXeroxという(当時の)大きな会社の範囲で、リソースに恵まれた理想的なトップダウンの思想でもありました。だからパーソナルコンピュータひとつを取り出して考えることができず、イーサネットやレーザープリンタなどを含んだシステムとして捉えていました。Steve JobsがAltoのアイデアを盗んでLisaを開発し、Macへとつながっていくのは周知の通りですが、Jobsは弱い者の立場からコンピューティングを民主化することを目指したのだとすると、もともと目指していたものが違うのです。

もちろん矛盾があります。PARCの伝説的なリーダーであるBob Taylorは、PARCに移る前に国防省ARPAでプログラムマネジャーをしていたのですが、PARCの初期のメンバーはARPAの資金で動いていた全米のプロジェクトに関わっていた若者でした。当初のインターネットは分散(脱中心)を原理としていましたが、当然ながらARPAのお金でARPAの名前で開発されたものです。カウンターカルチャーを支えたのが、軍のお金であったのはよく言われることです。Steve Jobsにしても、経営のスタイルは強権的な独裁者に近く、その製品群は閉じられたものであり、極度な秘密主義のもとて開発されてきました。Jobsがカウンターカルチャーとは相容れない一つのエステティックを持っていたのは明らかで、全てを歴史に還元するのは危険であることは明らかです。

つまり、コンピュータの技術は当時の文化と関連しながら、力を得て発展してきたと言えます。この文化がなかったら、コンピュータの技術がどのような方向に開発されたのかは想像でしかありませんが、いずれにしても技術が歴史に埋め込まれているということ、時代の変化を捉えることが重要であることは間違いないだろうと思います。ちなみにこの文化的背景を考えると、現在のスマホなどの技術はとても便利で喜んで使っていますが、技術としてはキレイに閉じられてしまって閉塞感を感じざるを得ません。民主化という理想は、実際に実現されてしまうとその力を失います。次のデザインの突破口はそういうところかもしれません。

矛盾を遂行するのがデザイン

デザインを「社会の限界点としての外部性を内部に節合すること」と定義して、その意味を議論しています(ブログはこれこれ、本はこちら)。(資本主義)社会の外部性とは、資本主義の論理を裏切るロジックを作り上げる動きです。例えば、芸術、工芸、伝統、ホスピタリティなどです。さらには社会を外部から批判するエリート主義です。デザインはこれを内部に節合して社会の中で価値に仕立て上げなければなりませんが(端的には市場で売ることです)、同時に外部性を保持もしなければなりません。つまり、かなり矛盾した動きです。以前にも増して現在のデザイナーは矛盾したものを両立させなければなりません。

どういうことでしょうか? 例えば、最近注目を集める「フーディ(foodie)」の言説を見てみましょう。一昔前はグルメとか美食家と言われた人々がいましたが、最近はそのような人は批判の対象でしかありません。彼らの「スノッブ(snobbery)」はごく限られたエリートの中で成立したエステティックですが、現在は誰かをスノッブだと言うのは最大の侮辱となりました。そこでグルメとか美食家を否定して生まれてきたのが、フーディです。彼らはエリート的な食べ物(ヨーロッパ的)だけではなく、ペルーのサビチェとか中東のハムスなどどんなものにでもこだわる(omnivore)という意味で、民主的な価値を体現したコスモポリタンなのです。ちなみにアメリカのフーディにとってはSushiはもはやメインストリームなので、陳腐なものでしかありません。

さて、このフーディのコスモポリタン的価値は、エリート主義を否定して出てきたものであるにも関わらず、それ自体がエリート主義だというのが現在の状況です。つまり、自分はエリート主義を批判することができ、民主的で異文化を好むことができるんだ、スゴいんだという屈折したエリート主義です。よい食とよくない食を区別し、ステータスに志向した政治でもあります。このフーディの言説は政治的な批判精神を再帰的に内包していて、帝国主義的な搾取、絶滅が危惧される種、非倫理的な労働環境、ローカルな文化を破壊してしまうようなグローバリズムに対しては批判精神を持つという意味で先進的なものではあります。しかしコスモポリタン的な政治的枠組みに無視されてきた人々の目からすると、自分たちが喜んで食べているものを勝手に批判してくる単なるエリート主義なのです。

「フーディ」というカテゴリを生み出してきたプレーヤーたちは、民主主義とエリート主義という相反するものを両立させる言説を作り上げる天才的なデザイナーです。
以前スターバックスがなぜ成功したのかについて説明しましたが、イタリア語を利用してなんとなくエリート的な価値を匂わせ、横でテロワールを明記したコーヒー豆を売るこだわりを見せつつ、ミルクをふんだんに入れてコーヒーの味をわからなくした大衆的なラテを売り出すのは、エリート的なエステティックと大衆的なエステティックという相反するものを両立させた天才的なデザインなのです。さらに言うと、これまでサービスは客を否定する闘争である必要があり、人間中心設計ではなく、人間〈脱〉中心設計である必要があるというのは何度も説いてきたことですが、ここでも同時に人間中心的に一貫してわかりやすくするデザインと両立させなければならないのです。サービスデザインは、わかりにくくすることと、わかりやすくすることを同時に行わなければなりません。

さて、フーディの話しに戻りましょう。このコスモポリタン的な価値は、オバマ前大統領の価値です。そして、従来のエリート主義を批判しているこの新しいエリート主義にうんざりした人々が、トランプ大統領の価値に共鳴しています。次の10年間で、この両方を乗り越える新しい価値を生み出したデザイナーや起業家が成功するのは間違いありません。しかしこのときかなり屈折した形で矛盾したものを同時に作り込まなければならないでしょう。ちょうど今、学部ゼミで、2、3回生の若い学生にこれをミッションとして与えています。

参考: フーディに関しては、たとえばこういう本が参考になります。
Johnston, J., & Baumann, S. (2018). Foodies: Democracy and Distinction in the Gourmet Foodscape. New York: Taylor and Francis.

求められている人材と大学改革

今は大学の人文社会系は役に立たないので縮小するべきという風潮ですが、むしろ人文社会系こそが現在の社会を革新する最先端であって、残された数少ない価値の源泉の一つです。それを縮小してしまったとして、どういう革新を期待しているのでしょうか。もちろん大学はこの人文社会系の知識を最大限活用して人材育成ができていません。改善していく余地はかなり大きいと思います。

今、日本の企業で求められている人材は、論理的に整理できたり、データを分析できたり、創造的なアイデアを思いつく方々(だけ)ではなく、時代の微妙な変化を読み解きながら、新しい概念を形作って社会に展開できる人だと思います。これが「
文化のデザイン」として研究テーマとしていることです。今に始まったことではありませんが、イノベーティブな事業は、利用者の潜在ニーズを満たすことからは生まれず、単に創造的で面白いアイデアだけからも生まれず、時代の先端で新しい社会を現前させることで生まれます。そこで時代の変化を読み解く力が必要ですが、そのためには世界の言説、人々の不安、エステティック、ヘゲモニー(権力関係)、サブカルチャーなどを総合的に結びつける物語を語らなければなりません。

例えば、企業で戦略に携わる方々が、なぜトランプ大統領が当選したのかなどについて、たとえ一面的でも自分なりのストーリーを語れなければ、おそらくその戦略は時代を捉えていません。企業の研究者が一つの技術に取り組んでいても、たとえばインスタがなぜ今流行るのかを考え抜いていなければ、その仕事は狭い技術的な専門性を越えることはありません。デザイナーも、ユーザリサーチをしてインサイトを導けてよく見えるものを制作できたとしても、アイデアだけの勝負はツラいものがあります。そのアイデアがどういう社会に埋め込まれているのかを捉えることで、デザインに力強さが生まれると思います。もちろん、社会の変化を強調するとき、歴史というものが何か理性を持ったお化けのようなものであると捉えるという意味ではありません。むしろ全体性を持った社会という幻想に対して、どこに亀裂を入れていくのかという問題です。


今、大学が創出しないといけない人材は、こういう時代の変化を読み解ける方々でではないでしょうか。起業の方法論を知っているとか、デザイン思考を身に付けているとかではありません。社会の変化を読み解き、新しい社会のあり方を追求するという、人文社会系の学問がやっていることをやらなければなりません。以前の技術自体に神秘性があった時代や、ニーズが満たされきっていない成長の余地のある時代では、そこまで考えなくても自分が専門とする領域でいい仕事をしていればよかったと思います。しかしながら、現在の状況ではそれでは食っていけません。一方で現在はその反動として創造的なアイデア勝負の風潮がありますが、これは近代主義を乗り越えるどころかそれに囚われた考え方であって、社会を変える力にはなりません(以前のブログ)。もちろん技術が重要ではないと言っているのではなく、技術とは根本的に時代に埋め込まれたものであるということです。

しかし現時点では、大学で社会学を学んでも、現代思想を学んでも、まして
MBAを取得しても、そういう能力を養うことは難しいでしょう。それが最も求められているはずのMBAでは、残念ながらそもそも学生さんがそういうことを学ぼうという意図がないので空回りしているのが実情です。大学がもう一度自分の存在意義を遂行・呈示しないといけないと思います。一方で、企業側もそういう人材の使い方を知らないと思います。そんなこと言う前にちゃんと目の前の仕事をしろと言われる雰囲気があるように思います。他方、時代の変化を読み解ろうとする方は、居酒屋での世間話の水準ではなく、そういう世間話でよく言われていることを理路整然と否定して、エビデンスを持って緻密に語ることができなければなりません。

今年から
2回生、3回生のゼミを持つことになりましたので、学生を鍛えようとしています。例えば、スタバはなぜ成功したのかを議論することから始めました。サードプレイスを作ったからというのは、当時そういうカフェが他にいくらでもあったことから、説明になっていません。ファッショナブルな空間を作ったからというのも同様です。これを理解するには、時代の変化を理解しなければなりません。戦後生まれの米国の若者が自らの存在を証明する手段を物質的な成功ではなく文化的エリートの価値に求めたのですが、同時に文化を囲い込むエリート主義やスノッブを否定し文化が民主化していくという矛盾した動きが重なったのがスタバなのです。スタバはオーセンティックなイタリアの文化に忠実であるのではなく、単に「イタリア語」を使うことで、文化を二重に読み解き軽く滑らせたのです(Douglas Holtを参照)。スタバに限らず、世の中を変えたヒット商品は全て時代の変化を読み解き、新しい社会を現前させたものです。

こういう説明が後付けであるという批判はあると思いますが、目指しているのは理論により将来を予測することではなく、時代の変化に敏感に反応する能力を培うことです。通常は何も考えずにすっと流れていきます。ペットボトルの水のパッケージを見てその意味を解き明かしたり、大学生がポールスミスの財布を持つというのがどういう意味があるのかを真剣に議論することで、この時代の変化を敏感に感じ取るスキルを鍛えています。これをするにあたって、社会学などの理論が役に立ちます。例えば、まずブルデューとその批判から始めていますが、それでかなりのことが説明つきます。その後、ジェイムソン、ハバーマス、フーコー、ボルタンスキー&シャペロ、レクヴィッツなどをカバーしていきたいと思います。理論をツールとして利用するだけも価値がありますが、やはりその理論自体がどういう時代背景で生じたのかを理解することで、社会の変化を読み解く深度が変わります。

大学で育成する人材に実務的な知識を与えよというプレッシャーが強く感じられますが、重要なのはその実務的な知識がどういう時代に埋め込まれていて、どう変化しているのかを掴めることが重要なのです。我々学者は自分の研究を通して時代を捉えようとしているので、その成果はこのような実務の教育に結びつくはずです。そういうことを考えずに、それぞれの分野の細かい部分だけを研究していたのでは、確かに馬鹿にされるだけです。そのなかで無理矢理、実務に役に立つ個別の事例を主張しても意味がありません。学者は直接的に企業と共同研究しなければならないとか、企業の利益に貢献する研究をしなければならないと結論する必要はありません。むしろ、企業が見ているものに批判的に向き合い、違う世界の可能性を提示することこそがその仕事です。

そうすると大学で育成する人材が企業がそのまま取りたい人材であるはずはありません。企業が求める人材を否定することができる人材を育てなければならなりません。昨今の大学改革は大学教育のこの基本的なことすら理解していないと思います。もう一度大学で勉強された方がいいのではないでしょうか。一方、大学はこのような人材を育成できるのかを問われていますが、個別の教員が努力しているだけで、大学らしくない反論しかできていません。

他者を迎え入れること: ホスピタリティ

授業(Intercultural Communication)でホスピタリティを議論しました。ホスピタリティは新しいMOOCでも1週間分を使って議論しています。ホスピタリティ(おもてなし)は現代社会に場所がないこと、そしてだからこそ今その価値が重要となっていることを、以前のブログで書きました。それとは別に何となく伝えたかったことがあります。

ホスピタリティが現在社会に場所がないということは、世界的に多くの国が内向きになって、民族主義のようなものに傾倒していく動きから見てもわかります。ホスピタリティが世界永久平和の条件だとすると、我々はそれから遠ざかっているように見えます。

デリダが言うように、法は我々の社会を切り詰めていくことによって、我々が保有する「家」を侵犯するのですが、自分が自信を持って保有している家がなければ、おそろしい「他者」を迎え入れることなどできなくなります。だから個人が内向きになり、社会が内向きになり、結果的に他者(異邦人)を嫌悪し排斥することになります。デリダの言葉を引用することに意味があるかもしれません。

「我が家」が侵犯されるところでは、いずれにせよ侵犯が侵犯として受け取られるところではどこでも、私有化を求める反動、あるいは家族主義的な反動さえも予想されます。さらに範囲が広がって、反動は民族中心的か国家主義的なものとなり、潜在的には外国人嫌悪となるわけです。(デリダ『歓待について』p. 82)



我々の家を侵犯するのは、もちろん異邦人ではありません。資本主義社会のシステムです。だから異邦人を排除することは何の得にもなりません。

現在の高度資本主義社会では、限られた世界の中だけとは言え、人々が平等に勝負ができる素晴しい環境が構築されました。その中で人々は自らネットワークを構築し、プロジェクトを成功させ、他の人々の尊敬を勝ち取るということを通して、自らを証明し続けることを求められています。もともとの出自や国籍は意味をなさず外国人が成功する一方で、それまで自分の家(国)だと思っていたものが脅かされることになります。つまり、我々は人々が平等に勝負ができるという理想の世界を手にしたとき、その世界は以前に増して偏狭なものでしかないという弁証法に直面するのです。

逆から言うと、ホスピタリティとは他者を無心に迎え入れることですが、それは自分の家を絶対的に保有するという権力を行使することと同時的なのです。家を保有する権力というのは、他者を排除することであり、その上で他者を迎え入れるということは自らの力を示すことです。だから、人々に対して他者を迎え入れようと押し付けても、あるいは保守的な人々を単に偏狭だと非難しても、ホスピタリティは実現されません。ついでに言えば、「家」というものは、伝統的には女性を、そしてその他の人(奴隷)を虐げる場として存在してきました。

だからホスピタリティという概念は自己矛盾を抱えており、その理想が実現されることはありえません。それならどうすればいいのか? まず、他者を心から迎え入れるというようなキレイな言葉だけで捉えるような単純なホスピタリティ概念は、無意味であるだけではなく有害です。自らの暴力に気付いていないというようなナイーブさ、あるいは人々になぜそのようなものもわからないのかと詰め寄るエリート主義は、現実から二周ほど遅れています。一方、ホスピタリティには意味がないと割り切って保守的な価値に突き進んでも、結果的に自らを苦しめるだけです。

そうではなく、我々はホスピタリティ概念を遂行的に達成しようと動かないといけないのです。遂行的にというのは、ホスピタリティを達成する行為自体の中で、ホスピタリティとは何かを問うという再帰性を実践しなければならないということです。ホスピタリティの意味は誰からも与えられませんし、ホスピタリティを実践する中で、自らのホスピタリティ概念を呈示しつつ、それを乗り越えていくわけです。しかし、そういうことをエリート的にではなく、軽々しくやってしまうのが現代的です。

今年から経営管理大学院のサービス価値創造プログラムは、「サービス & ホスピタリティプログラム」と名称を変更しました。同時に私がプログラム長を引き受ける事態となってしまいました。個人的には「ホスピタリティ」を前面に押し出すことに、以上のような意味を込めています。京大でホスピタリティを学ぶというセンスのなさは否定できないとしても、その意味が少しわかっていただければと思います。

「プレゼン」好きの大学一年生

今年も1回生の入門演習を受け持っています。2000年生まれ18歳の学生にどう接していいのかわからず、変な緊張感を持ってやっています。さて、学生に大学に来て何をやりたいのかと聞くと、「プレゼンをしたい」と言います。何についてプレゼンするのかと聞くと、内容はあまり気にしないようです。自分の世代は、プレゼンはできればしたくないというような感覚があったように思います。先週の授業では、別にやらなくてもいいよと言っているのに、自分もプレゼンしてみたいと言って前に出てきてやっていました。

少し見ていて、内容とプレゼンの二元論は、もう古臭いのだなぁと感じました。しっかりした内容を作れば、特にプレゼンに力を入れなくても、わかる人にはわかるというのは単なるエリート主義です。そうではなくて、わかる人にはわかるということを、わかる人にはわかるように伝えるのがプレゼンです。わかる人にはわかるというものを諦めるということではありません。いきなりプレゼンのことを考えて作品を作り出す職人や研究テーマを考える学者は、どこか不埒で信用できないと思われるところがあったかもしれませんが、これは二元論の前提に囚われているからです。

重要なのは、近代主義的な主体と客体の分離を乗り越えたところにあると思います。主客分離とは、自然から切り離された主体が自然に働きかける、主体が客体に関して抽象的なアイデアを頭の中に持つ、天才的なアイデアやスタイルを持った主体が対象を生み出すという幻想です。主体がひとりでこだわってモノを作ったり、思考して独自のアイデアを生み出しているというのは、今では若干ノスタルジックな響きがあります。私はこれを
相互主観性(intersubjectivity)を強調することで議論してきました。全ての行為は他者との関係の中での自己呈示となります。主体は対象(客体)から切り離せず、その主体が何なのかが常に問題となり、互いが自己呈示をする中で価値が作り上げられるということです。主体が苦労して作り上げたモノ(客体)に価値があるのではなく、価値は相互のやりとりを通して共創されると言われるのは、この時代の変化を捉えているのです。

客を喜ばせようとせず頑なに鮨を握っている親方、一見わからないような細部にコストがかかってもこだわり続ける工芸の職人、役に立つかもわからないし誰からも理解されないような学問にのめりこむ学者などは時代遅れではありません。むしろそれらの神秘性が少し意味を持つようになってきているように思います。重要なのは、それを内容だけが重要でプレゼンは必要ないというような単純な前提で理解したのでは、その意味を見逃してしまうということです。みんなそういう人を演じているのです。愛想のない親方が本当に愛想がないだけならアホです。だからと言って、親方が形だけなのかと問うのは二元論にとらわれているからで、親方の仕事がすでにプレゼンなのです。

だからこそ、プレゼンという演技は、何も軽薄なのではなく、社会起業家、工芸、学問、伝統などのマジメな正当性と結びつく余地があります。というよりも、二元論を乗り越えたプレゼンというのはシラケた感覚がないので、これらが自由に結びつくのは当然のように思います。少し興味深いと思いました。

新しいMOOC

新しいMOOC KyotoUx 008xを、2015年から実施してきた002xを全面的に改良して開講します。先日すべての講義を収録できました。前期が始まる4月に合わせて開講します。

以前のMOOCも受講された方にとっては、次の点が改善点です。

  • サービスの既存理論を拡充しました。顧客満足度、サービス品質、ギャップモデル、サービスドミナントロジックなどの解説を入れました。これを辿ることで、独自の視座、つまり相互主観性の視座を導きます。
  • ホスピタリティの議論を厚くしました。デリダのホスピタリティの議論だけではなく、現代社会におけるホスピタリティの位置付けなどを議論しています。最近の観光産業への注目やAirBnBの成功などに関連してホスピタリティは重要なテーマです。
  • ブルデューの理論について、1週分全体を使って議論しています。前回はブルデューの研究自体で止まっていましたが、今回はその後の議論も追加しています。
  • 弁証法については少しわかりやすく修正しました。
  • サービスデザインについては、文化の視座を導入しました。マクドナルドなどの事例も交えて人間脱中心設計を議論しています。

ということで、もう一度受講していただくのも悪くない内容となっています。今回は慣れたこともあり、講義ビデオのクオリティ(つまり私のトークのクオリティ)が格段に上がっています。ずいぶんわかりやすくなったと思います。講義ビデオもできるだけ短くして、メリハリをつけています。



学内では、学部の授業、MBAの授業、博士の授業の3つで反転授業をします。授業も教える時間が減って議論をする時間が増えて、とてもいいかんじです。

French speaking research assistant / フランス語のできるアシスタント募集

// English below

フランスのレストランにおいて食事やワインなどの注文場面をビデオに記録しました。そのデータを分析するにあたり、フランス語がネイティブな方のアシスタントを探しています。


業務内容
  • ビデオを見ながらチームで分析するときに、参加してもらいフランス語に関して質問に答えていただくこと。平日の昼に吉田本部キャンパス行います。日程は柔軟に決定します。
  • 一部分について書き起こしが不足しているところを書き起こしていただくこと。基本的には専門家に外注して書き起こしてもらっています。

雇用形態
  • 3から5時間(12から20時間)程度を想定しています。
  • 大学規定の時給となります(例えば学部生なら1,000/時間など)
  • ひとまず期間は4月から74ヶ月を想定しています。

条件
  • フランス語がネイティブで、日本語あるいは英語で議論ができる方。
  • 特にフランスの伝統的なレストランでの食事やワインの会話に抵抗のない方。
  • 留学生の方は、資格外活動許可を取得していること。
  • 上記の時間勤務ができる方(28時間の規定があるので、他の仕事で埋まっていないなど)
  • 京都大学に限らず、他大学の学生でも可。就労ができるなら学生でなくても可。

連絡先: 山内 / yamauchi@gsm.kyoto-u.ac.jp

We videotaped conversations when customers placed food and wine orders in a classical restaurant in France. We are looking for a French-speaking assistant who can help us analyze the data.

Job description
  • When the research team will view and discuss the data together, the assistant will participate and answer questions, etc. This will take place during the day in Yoshida Campus. The meetings can be scheduled flexibly.
  • The assistant may be asked to transcribe some parts of the data although we hired a professional researcher for transcription and English translation.

Employment
  • 3 to 5 hours of work per week (12 to 20 hours per month)
  • The hourly rate is determined according to Kyoto University rules, e.g., JPY1,000/hour for undergraduate students.
  • The duration of employment is between April and July—we may well continue in Fall.

Requirements
  • A native French speaker who can also speak Japanese or English.
  • Some familiarity with conversations on food and wine at a classical French restaurant.
  • Permission for part-time job in case of a student
  • Should be able to work for the above hours—for instance, students cannot work more than 28 hours / week.

Please contact me at yamauchi@gsm.kyoto-u.ac.jp.


サービスにおいて「見られる」ということ

よく聞く話しですが、サービス現場において客が店員に声をかけられることに抵抗感があることがあります。自由に買い物させて欲しい、何か買わないといけない雰囲気になる、などなど。アパレルのお店では、最近では声をかけてくれるなという意思表示を可能にするバッグがあるとか。我々のチームはサービスを研究するなかで、当然このような問題に直面します。クリーニング屋では、予期していなかったようなオプションを勧められるのは、何か売り付けられた感があり、少し緊張感が高まる場面です。この問題に対して、現場でどのように対応することで、スムーズに接客し、可能な場合には売上げを増やすことができるのかは、研究の過程でいくつか含意を議論することができます。しかし、今回議論したいのはそのような実践的な方法ではなく、サービスにおける客の「自由」の問題です。

おそらく客は店に来る前から、すでに店員に声をかけられることで自由に買い物ができなくなるということを予想・期待しています。店員の方々の視座から見るなら、店員は何も客の自由を奪うために声をかけているのでもなければ、売り付けようとしているわけでもありません。むしろ、店員は客に声をかけることにとてもリスクを払って、精神的な負荷を負っています。声をかけられた客からすると「また来た」と思っているかもしれませんが、声をかけるのは店員にとってもそれほど簡単なことではありません。

店員が客に話しかけるには、とても込み入った方法が必要となります。まず客を観察します。我々が調査をしたカジュアルなアパレルの店であれば、客の真横か少し後ろあたりに3メーターほどの距離を取ります。そこで品物の服をたたみ直したり、ハンガーを整理したりします。なぜこのようなことをするのでしょうか? まず、客を見るときに、凝視をしてはいけないのです。凝視は客の自由を奪います。そこで品物を整理したりすることで、自分は忙しいということを示します。忙しいのであなたを見ているわけではないということです。同様に、誰に言うともなしに「いらっしゃいませー」と空間に声をかける日本特有のやり方は、自分が目の前の客にではなく、他の客に注意を払っているということを示しています。見ていないフリをして客を見なければならないのです。

しかし客は同時に見て欲しいという思いもあります。店員の助けが必要となったとき、すぐにそこにいて欲しいのです。ピタっとつかれて見られると嫌なのですが、見ておいて欲しいということです。そこで店員は客の真横の周辺視野に入り、なんとなく存在感を意識できるところに位置して、忙しくしているフリをして客を見るのです。そして、その見られている状況で客がある商品の前で一定時間以上留まり、商品を手に取り始めれば、声をかけてもよいという相互の了解が出来上がります。

一方で、高級店ではどうでしょうか? 高級店では、店員は他の仕事をすることなく、静かに立って客を凝視します。調査した高級なアパレルのブランド店では、客を継続的に凝視し、服の陳列を一通り見終ったタイミングで近寄って声をかけます。客からするとこの間ずっと見られていることを意識します。かなりのプレッシャーですね。たとえば値札を見ることもできません。調査した店では女性のニットが15万円以上するのですが、客はそれを店員に聞かなければなりません。そして値段を聞いて驚いたフリをするわけにもいきません。

高級店では、いくら店員がフレンドリーに応対しても、かなりの緊張感を作り出すようにデザインされています。パリのヘリテージストアでは、このうわべのフレンドリーさすらもありません。一方でギャラリーラファイエットの中の店舗の店員が少しフレンドリーなのは、この二種類を意識して区別しデザインしているからです。また、この緊張感の中で自然に振舞えること、時にはルールを破って「自由」にふるまえることが、その客のレベルの呈示となります。むしろルールを意識しすぎて「正しい」ふるまいをする客は、慣れていない客なのです。

このようにサービスにおいては、「まなざし」がとても重要な要素となります。客にとっての「自由」は、客が求める「価値」と相反します。だから高級店では客の自由がなくなりますし、その不自由な状態で自由にふるまえる客を相手にしているというわけです。客は求めるものを求めると、それを手に入れることができず、求めるためには求めてはいけないという弁証法に直面しています。従来のサービス理論では説明されない側面ですが、むしろサービスの根幹をなすと言ってもいいと思います。一方で、高級店の緊張感はブルジョワ的価値を引きずっているのは明白で、近年この価値自体に陰りが見えるという側面も重要かもしれません。それでもまなざしの重要性は変わらないでしょう。

新しいMOOC (KyotoUx 008)で、実際のビデオデータを分析してもらって、このまなざしを議論しています。昨日収録が終了し、4月からランします。新しいMOOCの内容についてはまた時間のあるときに書きたいと思います。

相互主観性

私の研究では、相互主観性(intersubjectivity)を、組織やサービスに関連させて議論することが多いです。この概念を独自の用法で使っているので、少しとっつきにくいところがあり、質問されることが多いです。また私のジャーナルなどに出る論文はこのようなことをいちいち書かないので、ある程度整理して説明しておいた方がいいかと思いました。

サービスに関しては、私は図式的に次のように説明することにしています。サービスが定義として「価値共創」であるならば主客は分離できず、主体(客)は客体(サービス)に絡み取られているため、主体が客体について語るとき、自分自身について語らざるを得なくなります。だから、客がサービスの価値を云々するとき、客自身の価値も問題となるということ。つまり、客がどういう人なのか(who)ということが問題となるということです。サービスが闘争となるのは、このように人々が絡み取られることで、自分がどういう人間なのかを呈示し、否定し、交渉していくことを避けることができないからです。私が組織論の文脈で、ナラティブ、センスメイキング、ルーチンなどに絡めて、それぞれの人が自己呈示を行うこと、そして自己が状況に絡み取られているのであり、組織化や行為遂行性というものは、この自己の問題を前景化するものであるということです。この説明は相互主観性という概念を前提としています。

相互主観性というときに、フッサールの現象学を出発とするのがわかりやすいと思いますが、二つの意味があるかと思います。一つには、まず私が超越論的に構成する私の世界が、他者も自分で構成している同じ「客観的」な世界であるということをどう説明するのかということです。この点については、他者がその身体性でもって我々に現れるということから類比するという戦略、あるいは他者の存在を我々の存在の根源的・先験的なところにあることを認めるという戦略になりますが、どうもすっきりしません。社会学的には主体というものがすでに社会的に構成されているという主張に関連しますが、主体概念を解体するか棚に上げることにつながります。もう一つの意味があります。それは、もし私が私の世界を構成するなら、その世界の中にいる「他者」を私はどのように構成しうるのかという問題です。私が目の前の椅子を構成するようには、他者は構成できません。他者は私の世界を超出します。

つまり、主観性と相互主観性は相容れない水準の議論であって、主観性から出発して相互主観性を説明することは原理的に困難です。サービスが価値創造である限りにおいて相互主観性であると捉えるなら、主観性から出発することは失敗に終ります。価値をそれぞれの人が主観的に決定するとしてしまうと、そのような概念は誰にとってもアクセス不可能で意味がなくなってしまいます。この現象学の限界をふまえて、主に前者の意味から、主観性を棚に上げて社会理論を作り出そう試みが生じます。主体は置いておいて、人々の間の活動、つまりコミュニケーションに閉じて議論するというものです。たとえば、ルーマンのシステム論はこの方向性から出発していますし、ハーバーマスのコミュニケーション的行為の理論も同じように思います。この方向性は首尾一貫していて、主観性を社会の外側に出した上で、コミュニケーションというような社会的水準を基礎として社会を説明しようというものです。私はこの観点を避けることはできないように思います。エスノメソドロジーも他人の主観性(他の人が頭の中で何を考えているのか)を棚に上げて、それぞれの人がお互いに何をどう示し合うのかに着目します。

しかしながら、このように主観性を棚に上げた理論では、サービスの根幹を説明できなくなります。
以前にも書きましたが、なぜサービスが注目を集めるのかは、単に要求が満たされることの価値ではなく、「他者」に出会うという価値が欠かせないと思います。つまり、一方で他者に奉仕してもらう(させる)ことの価値であり、もう一方で他者との闘争の価値です。人々が資源を持ちより統合し、それぞれが便益を得ているという説明では、モノをやりとりしている伝統的な考え方に戻ってしまいかねません。サービスサイエンスがサービスシステムを、サービスドミナントロジックがサービスエコシステムを強調しますが、そこからは十分な距離が出ないと思います。たとえば、ルーマンのシステム論的には主体概念自体が避けるべきものですが、そうすると仮にセカンドオーダーの観察を導入したとしても、その観察対象者が言及の対象であるだけで、その存在は問われないことになります(そして言うまでもなく観察しているのは主体ではありません)。

そこで、もう一つの研究の方向性は、現象学の二つ目の意味に留まるというもので、しかしながら主観性の「認識」ではなく、その「存在」を捉えるという方向性です。ここでサルトルやレヴィナスなどが先駆的です。他者というものが、私の世界を震撼させそれを流れ出させ、私を私から脱け出せさるものであるという現象学です。我々が他者に出会うとき、我々は極度の緊張感にさらされます。この点は他者との出会いを、AさんとBさんの出会いという形で客観化するときには説明のつかない内容です。この説明は現象学によって可能となりますが、同時に相互行為の水準でも十分に議論できると思います。たとえば、ゴフマンは他者に対する自己呈示、例えば面子を保つというようなことを強調して社会学に革新をもたらしました。ここでのポイントは、客の主観性を顧客満足度やサービス品質に還元するのではなく、主観性が否定され脅かされる(主観性自体に否定を含む)という現実を捉えることです。これが弁証法を用いる根拠であり、冒頭の私のサービスの説明を可能とします。

さて問題は、主観性を避けることと他者を捉えるというこの両者をどう両立させるのかです。そもそも他者を扱う上では主体・主観を避けて通れませんが、主観性からは相互主観性を説明できません。結論から言うと、「実践論」でもって両立させるということになります。人々が呼び掛けに振り向くとき主体化が始まるのであるならば、相互主観的なコミュニケーションにおいては常に主体化が行われているわけですので、その過程を分析することができます。もちろん、主客分離に逆戻りしてこの主体が社会とは切り離された独立した存在であると捉える必要はありません。むしろ、主体は常に不断の主体化の過程で相互行為の中で現前しており、現象としての限りにおいて主体があると考えるのが自然であるように思います。つまり、相互主観性の水準で、主体をひとつのパフォーマンスという実践と捉えるわけです。そしてこの主体化の過程自体が、サービスの根幹をなします。つまり他者との関係で自身をどう定義付けるのかが、サービスの価値につながります。ここでエスノメソドロジーが有効な視座となります。

以上のような意味を込めて相互主観性という言葉を使っています。この一見取るに足りない微妙な領域に、豊かな研究の可能性が広がると考えています。サービスにおいて価値共創としてのサービスとは何かを、組織論において組織とは何かを追求すると、相互主観性の問題は避けることができないと思います。

京大変人会議

先日の「変人会議」で話したことがよくわからなかったと言われたので、補足です。精進が足りません。

大学の存在意義については
以前のブログとかぶりますが、再度説明したいと思います。学問は世の中に役に立たなくてもいいという考え方は、学問を社会において特別な存在であって、社会の外に位置付けるということですが、もはやそれが通じる時代ではありません。近代という社会は、何かスゴいものとそうではないものの大きな区別が感じられた時代でした。ある意味無条件に学問はスゴいと思われていたところがあると思います(私はそのような時代を知りません)。しかし、今は全てのものがTVのイメージやTweetsのように横並びで、正しいとか正当であるというものがごちゃまぜになったポストトゥルースの時代です。それぞれの人が独自の価値基準を持っており、それらの間で優劣をつけたり、どれかに還元することができない以上、すべてが並列に置かれるとも言えます。そのような時代に学問を無条件にスゴいものだと思うようなことはありませんし、学問も社会の他の部門と横並びになったわけです。だから学問も自分の正当性を示さなければならなくなったのです。

学問が自らの正当性を示すひとつの方法は、実際に社会の他の部門に貢献していることを示すことです。具体的には、経済的なリターン(投資対効果)を生み出しているかどうかです。しかし、学問(あるいは科学)に投資をして、その結果新しい技術が生まれて、それが経済的価値を生み出すというリニアモデルは歴史上いくつか例があるように見えますが、たまたまそうだっただけです。そもそも学問から生まれるイノベーションというようなものは、確率の問題であって、しかもその確率が低いので、狙ってやると成功しません。ある成功事例を分析し、それと同じことをやろうとしても、次のイノベーションは同じようには生まれません。企業がイノベーションを起こすために施策をやるのですが、それを賢くやろうとすればするほど失敗するのです。

一方で、科学は世の中の役に立たなくてもいい、いずれ誰かがそれをうまく利用してくれるというのは、実はすでにこのような投資対効果で正当化しようという枠組みに乗ってしまっています。逆に言うと将来的にも用途が見つからないものもある(むしろ多い)ということであり、そもそもそのような勝負をするべきではないと思います。余談ですが、よい研究は役に立つかどうかを考えない純粋な学問からしか出てこないというのは幻想だと思います。多くのピュアに科学的な発見は、応用研究から生じたものです(江崎ダイオードの話しを持ち出しましたが、混乱させただけでした)。さらに余談ですが、学問は社会に役に立つ必要がないというのは、近代において社会が分化し、それぞれの領域が自律化していった典型的な戦略です。社会の他の部門のために仕事をしているのではない、自分自身のために仕事をしているのだということによって、その領域が他の領域に従属しない最高の価値を持つということを示すという戦略です(鮨屋の親父が客のために仕事をしないのも一緒です)。ということで、学問は社会にとって役に立つ必要はないというのは、ひとつのパフォーマンスとしては意味のあることです。

以上を踏まえると、学問は自らの正当性を示さなければならないのですが、一方で社会の他の部門に貢献するという形では正当性を示すことができません。それならば学問が社会にどのように役に立つのでしょうか? 私が言いたかったのは、学問が社会に役に立つとするならば、それは社会において役に立つと評価される基準を解体し、新しい基準の可能性を示すということ(だけ)です。学問がやってきたのはまさにこういうことであって、何か他の人にとって具体的に役に立つモノを作り出すことではありません。これが言いたかったことなのです。ちなみに学問の歴史は、人間が自分が中心だと思ってきた観念を脱中心化してきた過程です。総長も触れましたが、コペルニクスが太陽が人間の周りを回っているのではなく、人間が太陽の周りを回っていると言ったこと、ダーウィンが人間は特別ではなく動物と一緒だと言ったこと、フロイトが人間は自分を知っていると思っているが本当はほとんど知らないと言ったことなど… 自分を中心にした基準で測ることに対して、それを解体していくのです。

しかしここからが難しいのです。もしそうであるならば、学者の仕事は社会にすぐに理解され、受入れられ、評価されるはずはありません。人々が信じ利用している基準を解体するとき、人々は不安に陥るでしょうし、むしろ反発するはずです。私の研究はほんの小さなものですが、サービスとは何かということで、一般の人々が持っている前提を解体しようとしています。今だに十分に理解されませんし、かなり反発をくらいます。大学でやっている学問を社会にわかりやすく伝えるなどということは幻想です。社会にすぐに理解できず反発されることをやるのが学問なのです。だから学問はこの社会において負けるしかないのです。そもそも勝てない勝負なのです。それで勝とうとして、一般的に人々が聞きたいことを言うのは学者の仕事ではありません。

しかしこのようなわかっていて負けるということ自体がどうもエリート主義的で古臭いところもあります。我々の実践する学問は社会の外にはない以上、その学問の内容だけを社会の外から一方的に投げるのではなく、社会の特定の位置に立ってその内容を伝えることがどういう意味を持った「行為」となるのかを常に考え続けなければなりません。つまり、学問はパフォーマンスでもなければなりません。今の学者はこの両義性を理解して実践できなければなりません。自分もできていません… 越前屋俵太さんはこれを理解されているからスゴいのです。

というのが私の非常に個人的な考えです。これをお伝えしたかったのですが、その全体像をうまく伝えられなかったので、断片的にだけ聞いた方は、私を単なる変人だと誤解されたことと思います。単なる誤解です。

さて、最後に総長が変人講座をやろうということで、「総長のお墨付き」がつきました。これではもはや変人講座ではありません。総長がやめてくれと言ってもやるのが変人講座です(もちろん山極総長自身は学者としてとても尊敬できる変人です)。しかし、そんな本当に変な変人講座ではここまで成功しないですし、長く続きません。ということでパフォーマンスが大事なのですが、学問を裏切ったのでは意味がありません。この学問の本当のオモシロさを伝えるためには、学問をもう一歩社会の中に埋込み直さなければならないのです。矛盾したことなので簡単なことではありませんが、がんばりたいと思います。