Destructured
Yutaka Yamauchi

「プレゼン」好きの大学一年生

今年も1回生の入門演習を受け持っています。2000年生まれ18歳の学生にどう接していいのかわからず、変な緊張感を持ってやっています。さて、学生に大学に来て何をやりたいのかと聞くと、「プレゼンをしたい」と言います。何についてプレゼンするのかと聞くと、内容はあまり気にしないようです。自分の世代は、プレゼンはできればしたくないというような感覚があったように思います。先週の授業では、別にやらなくてもいいよと言っているのに、自分もプレゼンしてみたいと言って前に出てきてやっていました。

少し見ていて、内容とプレゼンの二元論は、もう古臭いのだなぁと感じました。しっかりした内容を作れば、特にプレゼンに力を入れなくても、わかる人にはわかるというのは単なるエリート主義です。そうではなくて、わかる人にはわかるということを、わかる人にはわかるように伝えるのがプレゼンです。わかる人にはわかるというものを諦めるということではありません。いきなりプレゼンのことを考えて作品を作り出す職人や研究テーマを考える学者は、どこか不埒で信用できないと思われるところがあったかもしれませんが、これは二元論の前提に囚われているからです。

重要なのは、近代主義的な主体と客体の分離を乗り越えたところにあると思います。主客分離とは、自然から切り離された主体が自然に働きかける、主体が客体に関して抽象的なアイデアを頭の中に持つ、天才的なアイデアやスタイルを持った主体が対象を生み出すという幻想です。主体がひとりでこだわってモノを作ったり、思考して独自のアイデアを生み出しているというのは、今では若干ノスタルジックな響きがあります。私はこれを
相互主観性(intersubjectivity)を強調することで議論してきました。全ての行為は他者との関係の中での自己呈示となります。主体は対象(客体)から切り離せず、その主体が何なのかが常に問題となり、互いが自己呈示をする中で価値が作り上げられるということです。主体が苦労して作り上げたモノ(客体)に価値があるのではなく、価値は相互のやりとりを通して共創されると言われるのは、この時代の変化を捉えているのです。

客を喜ばせようとせず頑なに鮨を握っている親方、一見わからないような細部にコストがかかってもこだわり続ける工芸の職人、役に立つかもわからないし誰からも理解されないような学問にのめりこむ学者などは時代遅れではありません。むしろそれらの神秘性が少し意味を持つようになってきているように思います。重要なのは、それを内容だけが重要でプレゼンは必要ないというような単純な前提で理解したのでは、その意味を見逃してしまうということです。みんなそういう人を演じているのです。愛想のない親方が本当に愛想がないだけならアホです。だからと言って、親方が形だけなのかと問うのは二元論にとらわれているからで、親方の仕事がすでにプレゼンなのです。

だからこそ、プレゼンという演技は、何も軽薄なのではなく、社会起業家、工芸、学問、伝統などのマジメな正当性と結びつく余地があります。というよりも、二元論を乗り越えたプレゼンというのはシラケた感覚がないので、これらが自由に結びつくのは当然のように思います。少し興味深いと思いました。

新しいMOOC

新しいMOOC KyotoUx 008xを、2015年から実施してきた002xを全面的に改良して開講します。先日すべての講義を収録できました。前期が始まる4月に合わせて開講します。

以前のMOOCも受講された方にとっては、次の点が改善点です。

  • サービスの既存理論を拡充しました。顧客満足度、サービス品質、ギャップモデル、サービスドミナントロジックなどの解説を入れました。これを辿ることで、独自の視座、つまり相互主観性の視座を導きます。
  • ホスピタリティの議論を厚くしました。デリダのホスピタリティの議論だけではなく、現代社会におけるホスピタリティの位置付けなどを議論しています。最近の観光産業への注目やAirBnBの成功などに関連してホスピタリティは重要なテーマです。
  • ブルデューの理論について、1週分全体を使って議論しています。前回はブルデューの研究自体で止まっていましたが、今回はその後の議論も追加しています。
  • 弁証法については少しわかりやすく修正しました。
  • サービスデザインについては、文化の視座を導入しました。マクドナルドなどの事例も交えて人間脱中心設計を議論しています。

ということで、もう一度受講していただくのも悪くない内容となっています。今回は慣れたこともあり、講義ビデオのクオリティ(つまり私のトークのクオリティ)が格段に上がっています。ずいぶんわかりやすくなったと思います。講義ビデオもできるだけ短くして、メリハリをつけています。



学内では、学部の授業、MBAの授業、博士の授業の3つで反転授業をします。授業も教える時間が減って議論をする時間が増えて、とてもいいかんじです。

French speaking research assistant / フランス語のできるアシスタント募集

// English below

フランスのレストランにおいて食事やワインなどの注文場面をビデオに記録しました。そのデータを分析するにあたり、フランス語がネイティブな方のアシスタントを探しています。


業務内容
  • ビデオを見ながらチームで分析するときに、参加してもらいフランス語に関して質問に答えていただくこと。平日の昼に吉田本部キャンパス行います。日程は柔軟に決定します。
  • 一部分について書き起こしが不足しているところを書き起こしていただくこと。基本的には専門家に外注して書き起こしてもらっています。

雇用形態
  • 3から5時間(12から20時間)程度を想定しています。
  • 大学規定の時給となります(例えば学部生なら1,000/時間など)
  • ひとまず期間は4月から74ヶ月を想定しています。

条件
  • フランス語がネイティブで、日本語あるいは英語で議論ができる方。
  • 特にフランスの伝統的なレストランでの食事やワインの会話に抵抗のない方。
  • 留学生の方は、資格外活動許可を取得していること。
  • 上記の時間勤務ができる方(28時間の規定があるので、他の仕事で埋まっていないなど)
  • 京都大学に限らず、他大学の学生でも可。就労ができるなら学生でなくても可。

連絡先: 山内 / yamauchi@gsm.kyoto-u.ac.jp

We videotaped conversations when customers placed food and wine orders in a classical restaurant in France. We are looking for a French-speaking assistant who can help us analyze the data.

Job description
  • When the research team will view and discuss the data together, the assistant will participate and answer questions, etc. This will take place during the day in Yoshida Campus. The meetings can be scheduled flexibly.
  • The assistant may be asked to transcribe some parts of the data although we hired a professional researcher for transcription and English translation.

Employment
  • 3 to 5 hours of work per week (12 to 20 hours per month)
  • The hourly rate is determined according to Kyoto University rules, e.g., JPY1,000/hour for undergraduate students.
  • The duration of employment is between April and July—we may well continue in Fall.

Requirements
  • A native French speaker who can also speak Japanese or English.
  • Some familiarity with conversations on food and wine at a classical French restaurant.
  • Permission for part-time job in case of a student
  • Should be able to work for the above hours—for instance, students cannot work more than 28 hours / week.

Please contact me at yamauchi@gsm.kyoto-u.ac.jp.


サービスにおいて「見られる」ということ

よく聞く話しですが、サービス現場において客が店員に声をかけられることに抵抗感があることがあります。自由に買い物させて欲しい、何か買わないといけない雰囲気になる、などなど。アパレルのお店では、最近では声をかけてくれるなという意思表示を可能にするバッグがあるとか。我々のチームはサービスを研究するなかで、当然このような問題に直面します。クリーニング屋では、予期していなかったようなオプションを勧められるのは、何か売り付けられた感があり、少し緊張感が高まる場面です。この問題に対して、現場でどのように対応することで、スムーズに接客し、可能な場合には売上げを増やすことができるのかは、研究の過程でいくつか含意を議論することができます。しかし、今回議論したいのはそのような実践的な方法ではなく、サービスにおける客の「自由」の問題です。

おそらく客は店に来る前から、すでに店員に声をかけられることで自由に買い物ができなくなるということを予想・期待しています。店員の方々の視座から見るなら、店員は何も客の自由を奪うために声をかけているのでもなければ、売り付けようとしているわけでもありません。むしろ、店員は客に声をかけることにとてもリスクを払って、精神的な負荷を負っています。声をかけられた客からすると「また来た」と思っているかもしれませんが、声をかけるのは店員にとってもそれほど簡単なことではありません。

店員が客に話しかけるには、とても込み入った方法が必要となります。まず客を観察します。我々が調査をしたカジュアルなアパレルの店であれば、客の真横か少し後ろあたりに3メーターほどの距離を取ります。そこで品物の服をたたみ直したり、ハンガーを整理したりします。なぜこのようなことをするのでしょうか? まず、客を見るときに、凝視をしてはいけないのです。凝視は客の自由を奪います。そこで品物を整理したりすることで、自分は忙しいということを示します。忙しいのであなたを見ているわけではないということです。同様に、誰に言うともなしに「いらっしゃいませー」と空間に声をかける日本特有のやり方は、自分が目の前の客にではなく、他の客に注意を払っているということを示しています。見ていないフリをして客を見なければならないのです。

しかし客は同時に見て欲しいという思いもあります。店員の助けが必要となったとき、すぐにそこにいて欲しいのです。ピタっとつかれて見られると嫌なのですが、見ておいて欲しいということです。そこで店員は客の真横の周辺視野に入り、なんとなく存在感を意識できるところに位置して、忙しくしているフリをして客を見るのです。そして、その見られている状況で客がある商品の前で一定時間以上留まり、商品を手に取り始めれば、声をかけてもよいという相互の了解が出来上がります。

一方で、高級店ではどうでしょうか? 高級店では、店員は他の仕事をすることなく、静かに立って客を凝視します。調査した高級なアパレルのブランド店では、客を継続的に凝視し、服の陳列を一通り見終ったタイミングで近寄って声をかけます。客からするとこの間ずっと見られていることを意識します。かなりのプレッシャーですね。たとえば値札を見ることもできません。調査した店では女性のニットが15万円以上するのですが、客はそれを店員に聞かなければなりません。そして値段を聞いて驚いたフリをするわけにもいきません。

高級店では、いくら店員がフレンドリーに応対しても、かなりの緊張感を作り出すようにデザインされています。パリのヘリテージストアでは、このうわべのフレンドリーさすらもありません。一方でギャラリーラファイエットの中の店舗の店員が少しフレンドリーなのは、この二種類を意識して区別しデザインしているからです。また、この緊張感の中で自然に振舞えること、時にはルールを破って「自由」にふるまえることが、その客のレベルの呈示となります。むしろルールを意識しすぎて「正しい」ふるまいをする客は、慣れていない客なのです。

このようにサービスにおいては、「まなざし」がとても重要な要素となります。客にとっての「自由」は、客が求める「価値」と相反します。だから高級店では客の自由がなくなりますし、その不自由な状態で自由にふるまえる客を相手にしているというわけです。客は求めるものを求めると、それを手に入れることができず、求めるためには求めてはいけないという弁証法に直面しています。従来のサービス理論では説明されない側面ですが、むしろサービスの根幹をなすと言ってもいいと思います。一方で、高級店の緊張感はブルジョワ的価値を引きずっているのは明白で、近年この価値自体に陰りが見えるという側面も重要かもしれません。それでもまなざしの重要性は変わらないでしょう。

新しいMOOC (KyotoUx 008)で、実際のビデオデータを分析してもらって、このまなざしを議論しています。昨日収録が終了し、4月からランします。新しいMOOCの内容についてはまた時間のあるときに書きたいと思います。

相互主観性

私の研究では、相互主観性(intersubjectivity)を、組織やサービスに関連させて議論することが多いです。この概念を独自の用法で使っているので、少しとっつきにくいところがあり、質問されることが多いです。また私のジャーナルなどに出る論文はこのようなことをいちいち書かないので、ある程度整理して説明しておいた方がいいかと思いました。

サービスに関しては、私は図式的に次のように説明することにしています。サービスが定義として「価値共創」であるならば主客は分離できず、主体(客)は客体(サービス)に絡み取られているため、主体が客体について語るとき、自分自身について語らざるを得なくなります。だから、客がサービスの価値を云々するとき、客自身の価値も問題となるということ。つまり、客がどういう人なのか(who)ということが問題となるということです。サービスが闘争となるのは、このように人々が絡み取られることで、自分がどういう人間なのかを呈示し、否定し、交渉していくことを避けることができないからです。私が組織論の文脈で、ナラティブ、センスメイキング、ルーチンなどに絡めて、それぞれの人が自己呈示を行うこと、そして自己が状況に絡み取られているのであり、組織化や行為遂行性というものは、この自己の問題を前景化するものであるということです。この説明は相互主観性という概念を前提としています。

相互主観性というときに、フッサールの現象学を出発とするのがわかりやすいと思いますが、二つの意味があるかと思います。一つには、まず私が超越論的に構成する私の世界が、他者も自分で構成している同じ「客観的」な世界であるということをどう説明するのかということです。この点については、他者がその身体性でもって我々に現れるということから類比するという戦略、あるいは他者の存在を我々の存在の根源的・先験的なところにあることを認めるという戦略になりますが、どうもすっきりしません。社会学的には主体というものがすでに社会的に構成されているという主張に関連しますが、主体概念を解体するか棚に上げることにつながります。もう一つの意味があります。それは、もし私が私の世界を構成するなら、その世界の中にいる「他者」を私はどのように構成しうるのかという問題です。私が目の前の椅子を構成するようには、他者は構成できません。他者は私の世界を超出します。

つまり、主観性と相互主観性は相容れない水準の議論であって、主観性から出発して相互主観性を説明することは原理的に困難です。サービスが価値創造である限りにおいて相互主観性であると捉えるなら、主観性から出発することは失敗に終ります。価値をそれぞれの人が主観的に決定するとしてしまうと、そのような概念は誰にとってもアクセス不可能で意味がなくなってしまいます。この現象学の限界をふまえて、主に前者の意味から、主観性を棚に上げて社会理論を作り出そう試みが生じます。主体は置いておいて、人々の間の活動、つまりコミュニケーションに閉じて議論するというものです。たとえば、ルーマンのシステム論はこの方向性から出発していますし、ハーバーマスのコミュニケーション的行為の理論も同じように思います。この方向性は首尾一貫していて、主観性を社会の外側に出した上で、コミュニケーションというような社会的水準を基礎として社会を説明しようというものです。私はこの観点を避けることはできないように思います。エスノメソドロジーも他人の主観性(他の人が頭の中で何を考えているのか)を棚に上げて、それぞれの人がお互いに何をどう示し合うのかに着目します。

しかしながら、このように主観性を棚に上げた理論では、サービスの根幹を説明できなくなります。
以前にも書きましたが、なぜサービスが注目を集めるのかは、単に要求が満たされることの価値ではなく、「他者」に出会うという価値が欠かせないと思います。つまり、一方で他者に奉仕してもらう(させる)ことの価値であり、もう一方で他者との闘争の価値です。人々が資源を持ちより統合し、それぞれが便益を得ているという説明では、モノをやりとりしている伝統的な考え方に戻ってしまいかねません。サービスサイエンスがサービスシステムを、サービスドミナントロジックがサービスエコシステムを強調しますが、そこからは十分な距離が出ないと思います。たとえば、ルーマンのシステム論的には主体概念自体が避けるべきものですが、そうすると仮にセカンドオーダーの観察を導入したとしても、その観察対象者が言及の対象であるだけで、その存在は問われないことになります(そして言うまでもなく観察しているのは主体ではありません)。

そこで、もう一つの研究の方向性は、現象学の二つ目の意味に留まるというもので、しかしながら主観性の「認識」ではなく、その「存在」を捉えるという方向性です。ここでサルトルやレヴィナスなどが先駆的です。他者というものが、私の世界を震撼させそれを流れ出させ、私を私から脱け出せさるものであるという現象学です。我々が他者に出会うとき、我々は極度の緊張感にさらされます。この点は他者との出会いを、AさんとBさんの出会いという形で客観化するときには説明のつかない内容です。この説明は現象学によって可能となりますが、同時に相互行為の水準でも十分に議論できると思います。たとえば、ゴフマンは他者に対する自己呈示、例えば面子を保つというようなことを強調して社会学に革新をもたらしました。ここでのポイントは、客の主観性を顧客満足度やサービス品質に還元するのではなく、主観性が否定され脅かされる(主観性自体に否定を含む)という現実を捉えることです。これが弁証法を用いる根拠であり、冒頭の私のサービスの説明を可能とします。

さて問題は、主観性を避けることと他者を捉えるというこの両者をどう両立させるのかです。そもそも他者を扱う上では主体・主観を避けて通れませんが、主観性からは相互主観性を説明できません。結論から言うと、「実践論」でもって両立させるということになります。人々が呼び掛けに振り向くとき主体化が始まるのであるならば、相互主観的なコミュニケーションにおいては常に主体化が行われているわけですので、その過程を分析することができます。もちろん、主客分離に逆戻りしてこの主体が社会とは切り離された独立した存在であると捉える必要はありません。むしろ、主体は常に不断の主体化の過程で相互行為の中で現前しており、現象としての限りにおいて主体があると考えるのが自然であるように思います。つまり、相互主観性の水準で、主体をひとつのパフォーマンスという実践と捉えるわけです。そしてこの主体化の過程自体が、サービスの根幹をなします。つまり他者との関係で自身をどう定義付けるのかが、サービスの価値につながります。ここでエスノメソドロジーが有効な視座となります。

以上のような意味を込めて相互主観性という言葉を使っています。この一見取るに足りない微妙な領域に、豊かな研究の可能性が広がると考えています。サービスにおいて価値共創としてのサービスとは何かを、組織論において組織とは何かを追求すると、相互主観性の問題は避けることができないと思います。

京大変人会議

先日の「変人会議」で話したことがよくわからなかったと言われたので、補足です。精進が足りません。

大学の存在意義については
以前のブログとかぶりますが、再度説明したいと思います。学問は世の中に役に立たなくてもいいという考え方は、学問を社会において特別な存在であって、社会の外に位置付けるということですが、もはやそれが通じる時代ではありません。近代という社会は、何かスゴいものとそうではないものの大きな区別が感じられた時代でした。ある意味無条件に学問はスゴいと思われていたところがあると思います(私はそのような時代を知りません)。しかし、今は全てのものがTVのイメージやTweetsのように横並びで、正しいとか正当であるというものがごちゃまぜになったポストトゥルースの時代です。それぞれの人が独自の価値基準を持っており、それらの間で優劣をつけたり、どれかに還元することができない以上、すべてが並列に置かれるとも言えます。そのような時代に学問を無条件にスゴいものだと思うようなことはありませんし、学問も社会の他の部門と横並びになったわけです。だから学問も自分の正当性を示さなければならなくなったのです。

学問が自らの正当性を示すひとつの方法は、実際に社会の他の部門に貢献していることを示すことです。具体的には、経済的なリターン(投資対効果)を生み出しているかどうかです。しかし、学問(あるいは科学)に投資をして、その結果新しい技術が生まれて、それが経済的価値を生み出すというリニアモデルは歴史上いくつか例があるように見えますが、たまたまそうだっただけです。そもそも学問から生まれるイノベーションというようなものは、確率の問題であって、しかもその確率が低いので、狙ってやると成功しません。ある成功事例を分析し、それと同じことをやろうとしても、次のイノベーションは同じようには生まれません。企業がイノベーションを起こすために施策をやるのですが、それを賢くやろうとすればするほど失敗するのです。

一方で、科学は世の中の役に立たなくてもいい、いずれ誰かがそれをうまく利用してくれるというのは、実はすでにこのような投資対効果で正当化しようという枠組みに乗ってしまっています。逆に言うと将来的にも用途が見つからないものもある(むしろ多い)ということであり、そもそもそのような勝負をするべきではないと思います。余談ですが、よい研究は役に立つかどうかを考えない純粋な学問からしか出てこないというのは幻想だと思います。多くのピュアに科学的な発見は、応用研究から生じたものです(江崎ダイオードの話しを持ち出しましたが、混乱させただけでした)。さらに余談ですが、学問は社会に役に立つ必要がないというのは、近代において社会が分化し、それぞれの領域が自律化していった典型的な戦略です。社会の他の部門のために仕事をしているのではない、自分自身のために仕事をしているのだということによって、その領域が他の領域に従属しない最高の価値を持つということを示すという戦略です(鮨屋の親父が客のために仕事をしないのも一緒です)。ということで、学問は社会にとって役に立つ必要はないというのは、ひとつのパフォーマンスとしては意味のあることです。

以上を踏まえると、学問は自らの正当性を示さなければならないのですが、一方で社会の他の部門に貢献するという形では正当性を示すことができません。それならば学問が社会にどのように役に立つのでしょうか? 私が言いたかったのは、学問が社会に役に立つとするならば、それは社会において役に立つと評価される基準を解体し、新しい基準の可能性を示すということ(だけ)です。学問がやってきたのはまさにこういうことであって、何か他の人にとって具体的に役に立つモノを作り出すことではありません。これが言いたかったことなのです。ちなみに学問の歴史は、人間が自分が中心だと思ってきた観念を脱中心化してきた過程です。総長も触れましたが、コペルニクスが太陽が人間の周りを回っているのではなく、人間が太陽の周りを回っていると言ったこと、ダーウィンが人間は特別ではなく動物と一緒だと言ったこと、フロイトが人間は自分を知っていると思っているが本当はほとんど知らないと言ったことなど… 自分を中心にした基準で測ることに対して、それを解体していくのです。

しかしここからが難しいのです。もしそうであるならば、学者の仕事は社会にすぐに理解され、受入れられ、評価されるはずはありません。人々が信じ利用している基準を解体するとき、人々は不安に陥るでしょうし、むしろ反発するはずです。私の研究はほんの小さなものですが、サービスとは何かということで、一般の人々が持っている前提を解体しようとしています。今だに十分に理解されませんし、かなり反発をくらいます。大学でやっている学問を社会にわかりやすく伝えるなどということは幻想です。社会にすぐに理解できず反発されることをやるのが学問なのです。だから学問はこの社会において負けるしかないのです。そもそも勝てない勝負なのです。それで勝とうとして、一般的に人々が聞きたいことを言うのは学者の仕事ではありません。

しかしこのようなわかっていて負けるということ自体がどうもエリート主義的で古臭いところもあります。我々の実践する学問は社会の外にはない以上、その学問の内容だけを社会の外から一方的に投げるのではなく、社会の特定の位置に立ってその内容を伝えることがどういう意味を持った「行為」となるのかを常に考え続けなければなりません。つまり、学問はパフォーマンスでもなければなりません。今の学者はこの両義性を理解して実践できなければなりません。自分もできていません… 越前屋俵太さんはこれを理解されているからスゴいのです。

というのが私の非常に個人的な考えです。これをお伝えしたかったのですが、その全体像をうまく伝えられなかったので、断片的にだけ聞いた方は、私を単なる変人だと誤解されたことと思います。単なる誤解です。

さて、最後に総長が変人講座をやろうということで、「総長のお墨付き」がつきました。これではもはや変人講座ではありません。総長がやめてくれと言ってもやるのが変人講座です(もちろん山極総長自身は学者としてとても尊敬できる変人です)。しかし、そんな本当に変な変人講座ではここまで成功しないですし、長く続きません。ということでパフォーマンスが大事なのですが、学問を裏切ったのでは意味がありません。この学問の本当のオモシロさを伝えるためには、学問をもう一歩社会の中に埋込み直さなければならないのです。矛盾したことなので簡単なことではありませんが、がんばりたいと思います。

ホスピタリティの場所

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先日の
京大変人講座の最後に少しだけ触れたホスピタリティの議論です。また、MOOCが2年ほど経ったので内容を更新しているところですが、ホスピタリティについての講義を少し拡充しています(その他、サービスの既存理論なども拡充しました)。ホスピタリティやおもてなしについては、これまでこのブログでも書いてきましたが、若干誤解があるようですので、説明の仕方を工夫したいと思います。

デリダに従って
ホスピタリティが不可能であることホスピタリティとは他者との力の関係であることなどを強調してきました。しかしこの主張が、ホスピタリティ概念に意味がないという誤解を導いたように思います。つまり不可能であるということは、ホスピタリティ自体が成立しないというように。そうではなく、むしろだからこそホスピタリティ概念に意味があると主張することが目的でした。不可能であることがその可能性の条件であり、だからこそ一層意味があるということです。そもそも可能なものによって閉じられた世界を措定することが危険なのです。ホスピタリティ概念はそれを切り裂く可能性を秘めたものだということが言いたかったのです。

ホスピタリティが人々を魅了するのは、まずは闘争を通して力を得ること、高貴になること、そして名誉を得ることです(アリストテレスなど)。他者という予測できない脅威に対してそれだけのもてなしができる人間であるということで、他の人を抜きに出ることができるわけです。しかしながら、それ以上にホスピタリティが魅力的である根本的な理由があります。ホスピタリティが「法」を乗り越える、「社会」を乗り越える、そして「自分」を乗り越えるための原動力だということです。ちなみに、「おもてなし」が友愛、やさしさ、思いやり、心からの奉仕などに根差しているからではありません。

どういうことでしょうか? ホスピタリティはまず法に基づくものでありながら、法を乗り越えるものでもあります。古代の話しから始めると、ここでの法は客人の権利(庇護権)であったり、盟約のある他国や他部族の人を迎え入れる掟であったり、あるいは神の命令であったりします。H. C. パイヤーによると、ギリシャの都市国家同士は互いの市民をもてなす契約を結び、その後国が法律を制定して庇護権を設定するようになりました。しかしながら、法にしたがい歓待したのでは、客人にとっても他の人にとっても(私の用語で言うなら「相互主観的」には)、ホスピタリティになりません。やらされている感が出て、ありがたいものではなく、力、高貴さ、名誉とは無縁となります。歓待するからには常に心から歓待しないといけないということになります。無条件なホスピタリティとは、他者の素性も名前も聞かず、誰でもいつでも見返りなしに迎え入れるということですが、このイメージが遂行されなければ、ホスピタリティには意味がありません(それを遂行することは不可能ですが)。だから、ホスピタリティは常に法を否定しながら、不可能であっても無条件なホスピタリティを指向しなければならないのです。

そしてこれは経済的な合理性に関しても同じです。将来的な見返り(リターン)を求めた利己的なホスピタリティは、瞬間的に価値を失います。そこでホスピタリティは、常にそれ自身のために、つまり見返りを求めていないようになされなければなりません。だからホスピタリティは常に経済的な合理性を裏切らなければならないのです。ポトラッチのように過度に与えるということがホスピタリティに見られるのは、この経済的合理性を裏切るということをそのようにしか表現できないということだろうと思います。伝統的なホスピタリティにおいては歓待されたゲストの側がお礼に贈り物をしてしまうと、ホストが憤慨します。ホストはゲストは最大限もてなした上で、送り出すときにはゲストにさらに贈り物を持たせるのです。つまり経済的交換とは逆なのです。そしてこのように法や経済合理性を乗り越えることによって、最終的には自分を無化し、それによって自分を乗り越えることになります。

そうすると、ホスピタリティ概念は、法や経済を否定し裏切り、それらを危うくするものになります。現在の社会は法や経済合理性に支配されているため、ホスピタリティを放置することができません。法は制定されると一様に施行されなければならず、法を裏切るものはコントロールできず、排除しなければならないのです。ヒッチハイクは多くの国で違法です(米国やオーストラリア)。同時に経済合理性のないものは社会の外部に押し出されてしまいます。現在の資本主義社会においては、我々の社会的関係は経済的な取引の関係として、人と人の関係ではなくモノとモノの関係に物象化されていくわけですが、そこではホスピタリティに場所はありません。

ホスピタリティ概念は過去のものであり、ホスピタリティ、歓待、おもてなしなどの言葉が何とも古い時代の感じがすること、つまりホスピタリティは現代社会においては居場所がないということですが、それは以上が原因だと思います。一方で、ホスピタリティや「おもてなし」が、現在の産業界にとってキーワードとなっています。経営管理大学院も来年度からホスピタリティを前面に押し出すことになりました(サービス価値創造プログラムからサービス&ホスピタリティプログラムに変更します)。なぜでしょうか? それはまさにホスピタリティには現代社会に場所がないことが理由です。つまり、経済的な合理性を裏切るからです。現在の社会は多様にものがあふれ、経済的に合理的なものは一瞬で価値を失います。そこでホスピタリティという、経済合理性を裏切る概念を戻し入れることによって、なんとか価値を保とうとしているのです。

しかしこのときホスピタリティは一度経済的な合理性が行き着いた後、付加的に持ち込まれたものです。そもそもホスピタリティ産業と呼ばれるホテルでのもてなしは、対価の見返りとして提供されているのであり、最終的にはある程度空虚な感覚を残さざるを得ません。そこで従業員に心からのおもてなしというようなことを刷り込むことによって、そこに「心がこもる」ような錯覚を起こし、なんとかこの空虚さを埋め合せようとします。ちなみに、Airbnbなどが個人の所有物に他者を迎え入れることを価値として、ホスピタリティを前面に打ち出すことは興味深いです。もちろん大部分はホテルと比較したときの経済的な計算であり、そもそもホテルで成立していないホスピタリティ概念を突いた、同じぐらい空虚なレトリックではあります。しかし重要なのは、それがなぜ人々を魅了するのかです。

ホスピタリティは資本主義に回収されるのでしょうか? これまで何度も起こってきたように、資本主義は屈折した形で批判を回収していくでしょう。そうだとしても、重要なのはホスピタリティが資本主義に挑戦状を叩き付けている現実であり、ホスピタリティにはこの社会を乗り越える原動力があるということです。もちろん資本主義がそのように自身に挑戦するものを求めているし、それに依存しているのですが。もしたとえば産業界もこのことの意味を理解すれば、ホスピタリティの価値をさらに現実にしていくことができると思います。ホスピタリティには、客を居心地よくすることの価値とは比べものにならないぐらいの価値の可能性があるのです。