Destructured
Yutaka Yamauchi

価値の変遷: 社会的起業家、ESG投資

経済学部ゼミの学生がいろいろ調べて発表してくれました。前回のブログでは、自然への回帰やエクストリームスポーツがなぜ今の人々を魅了するのかについての議論を説明しました。今回は、社会的起業家やESG投資についてふりかえります。

社会的起業家やESG投資は矛盾を抱えています。社会課題を解決するということは、社会課題自体が資本主義に起因することが多いため、資本主義のロジックを否定することになります。つまり起業や投資と矛盾します。だからこそ、なぜ社会的起業家やESG投資が成功しているのかを理解することは重要です。

通常は、社会問題に取り組むことが正しいことであるとか、EGS投資は儲かるとか、もはや避けられないというような議論があります。しかし、そもそも社会的起業家やESG投資が「かっこいい」という文化的な視座があるのではないかということです。かっこいいから魅力を感じ、人々がその姿に同一化するということです。その結果として、これらの動きが大きくなり、正当なものと捉えられていくのだろうということです。

学生がマイケル・ダグラスが主演するWall Streetという1987年の映画と、2010年の続編を比較分析しました。1987年には「欲は善だ (greed is good)」というセリフがあります。これはその時代の人々を魅了したと思います。80年代はサッチャーやレーガンによる新自由主義が浸透した時代です。今では悪者のように議論されますが、そもそもサッチャーもレーガンも既存の社会秩序を批判したのです。

それまで貴族のおっさんが閉鎖的なクラブで政治をしていたところで、中産階級出身の女性であるサッチャーが出現したのです。レーガンもカリフォルニアの俳優であり、特に中身がなく支離滅裂だとバカにされていたわけです。両方、既存の製造業や労働組合を破壊し、国のサービスを削減し、金融を重視した政策を進めました。貴族やブルジョワの特権として自らが義務を負うという倫理を体現する支配階層の偽善に対して、「欲は善だ」ということは、異議申し立てなのです。欲にもとづいて努力をすることで、既存の社会的地位に関係なく個人が成功し、社会が発展していくという新しいモデルを提示したわけです。もちろん、87年のブラックフライデーなどによって大きく変化していく過渡期であったことも忘れてはいけません。

そして、2010年の続編Wall Streetは、ESG投資(そういう言葉はあまり使われなかったと思いますが)がかっこいいというように変化しています。明確に社会のために正義を目指すイデオロギーが表現されています。そして、家族を重視することも含みます。つまり「正しい」ことがかっこいいと表現されます。

しかしなぜ「正しい」ことがカッコいいのでしょうか? 単にリーマンショックの反動と片付けることはできません。前回、若者の反抗的なサブカルチャーの話しをしましたが、反抗が現在は微妙な形を取るようになってきています。20年以上前であれば、人々は何か反抗するということを当然として生きていたように思います。例えば、学校で「正しい」ことをすると、友達から馬鹿にされたと思います。しかし今の若者は、そういう感覚があまりありません。社会への批判が、以前はワルであることによって、今は正しいことをすることによってなされるわけです。

なぜでしょうか? 以前には、弱くなったとは言え、社会がまだ進歩している感覚、そして目の前の状態を乗り越えてその先の状態に到達するという図式が信憑性を持っていたと思います。しかしこの20年弱の間に、このような図式は大部分崩壊しました。今は進歩する感覚を持てません。ムーアの法則で発展し、ソフトウェア技術が次々と更新され、インテルやマイクロソフトが世界の先端を行っていた時代ではなく、もはやCPUのゲート数やプログラミング言語はどうでもよくて、Facebook、Youtube、Twitterなどが最先端です。次に出てくるものは、前のものに対する前進ではなく、同列のものとして感じられるでしょう。

進歩している感覚がないということは、目指すべき理想状態を感じることができないということです。まず勝利に意味がないということです。だから、敵を打ち負かすという枠組みが信憑性を失ない、前回書いたようにスポーツのイデオロギーが、個人が自分に向き合うというものに変化しています。敵ではなく、共感を得る(がそれぞれ独立した)仲間を増やすことが重視されます。同時に、目の前の問題を解決した後の理想的な状態を感じ取れないという状態であるため、問題の解決が空虚に感じられるわけです。しかし今の若者は、この空虚さを乗り越える力を持っています。

端的に言うと、現在の文化のキーワードは「ループ」であり、ループの中で自分の居場所を確保し、自由と真正性(authenticity)を獲得するというイデオロギーなのです。ループを肯定するということは、反抗することが意味を失うということです。ひと昔前には、ループを打ち破って本当の自分を打ち立てるというニーチェ的な理想が力を持っていましたが、今はループを肯定するわけです(肯定する形で反抗する)。

社会課題に取り組むというとき、必ずしも問題を解決して理想の状態に到達できるという実感があるわけではありません。おそらく終らないし、永遠に解決できない問題だろうと思います。学生によると、敵を倒してもより強い敵に出会う終りの見えない漫画が典型的だとのことです(そして敵にもそれぞれの事情があって、必ずしも善と悪の二分法が成立しないとのことです)。今の時代に価値があるのは、日常のループを打ち破って新しい現実を打ち立てることではなく、多くの人々と一緒に自分のループの中で充実した感覚を得るということです。協力して成し遂げるというよりも、それぞれが各自のループに向き合うのですが、みんなが共感して一緒にやるというわけです。

学生とこのような議論していると、自分がどれだけおっさんになったのかを痛感します。「闘争」としてのサービスがいまいち受け入れられないのも、人間<脱>中心設計を提案しても空振りするのも、全て時代遅れだということです。