Destructured
Yutaka Yamauchi

Business School

求められている人材と大学改革

今は大学の人文社会系は役に立たないので縮小するべきという風潮ですが、むしろ人文社会系こそが現在の社会を革新する最先端であって、残された数少ない価値の源泉の一つです。それを縮小してしまったとして、どういう革新を期待しているのでしょうか。もちろん大学はこの人文社会系の知識を最大限活用して人材育成ができていません。改善していく余地はかなり大きいと思います。

今、日本の企業で求められている人材は、論理的に整理できたり、データを分析できたり、創造的なアイデアを思いつく方々(だけ)ではなく、時代の微妙な変化を読み解きながら、新しい概念を形作って社会に展開できる人だと思います。これが「
文化のデザイン」として研究テーマとしていることです。今に始まったことではありませんが、イノベーティブな事業は、利用者の潜在ニーズを満たすことからは生まれず、単に創造的で面白いアイデアだけからも生まれず、時代の先端で新しい社会を現前させることで生まれます。そこで時代の変化を読み解く力が必要ですが、そのためには世界の言説、人々の不安、エステティック、ヘゲモニー(権力関係)、サブカルチャーなどを総合的に結びつける物語を語らなければなりません。

例えば、企業で戦略に携わる方々が、なぜトランプ大統領が当選したのかなどについて、たとえ一面的でも自分なりのストーリーを語れなければ、おそらくその戦略は時代を捉えていません。企業の研究者が一つの技術に取り組んでいても、たとえばインスタがなぜ今流行るのかを考え抜いていなければ、その仕事は狭い技術的な専門性を越えることはありません。デザイナーも、ユーザリサーチをしてインサイトを導けてよく見えるものを制作できたとしても、アイデアだけの勝負はツラいものがあります。そのアイデアがどういう社会に埋め込まれているのかを捉えることで、デザインに力強さが生まれると思います。もちろん、社会の変化を強調するとき、歴史というものが何か理性を持ったお化けのようなものであると捉えるという意味ではありません。むしろ全体性を持った社会という幻想に対して、どこに亀裂を入れていくのかという問題です。


今、大学が創出しないといけない人材は、こういう時代の変化を読み解ける方々でではないでしょうか。起業の方法論を知っているとか、デザイン思考を身に付けているとかではありません。社会の変化を読み解き、新しい社会のあり方を追求するという、人文社会系の学問がやっていることをやらなければなりません。以前の技術自体に神秘性があった時代や、ニーズが満たされきっていない成長の余地のある時代では、そこまで考えなくても自分が専門とする領域でいい仕事をしていればよかったと思います。しかしながら、現在の状況ではそれでは食っていけません。一方で現在はその反動として創造的なアイデア勝負の風潮がありますが、これは近代主義を乗り越えるどころかそれに囚われた考え方であって、社会を変える力にはなりません(以前のブログ)。もちろん技術が重要ではないと言っているのではなく、技術とは根本的に時代に埋め込まれたものであるということです。

しかし現時点では、大学で社会学を学んでも、現代思想を学んでも、まして
MBAを取得しても、そういう能力を養うことは難しいでしょう。それが最も求められているはずのMBAでは、残念ながらそもそも学生さんがそういうことを学ぼうという意図がないので空回りしているのが実情です。大学がもう一度自分の存在意義を遂行・呈示しないといけないと思います。一方で、企業側もそういう人材の使い方を知らないと思います。そんなこと言う前にちゃんと目の前の仕事をしろと言われる雰囲気があるように思います。他方、時代の変化を読み解ろうとする方は、居酒屋での世間話の水準ではなく、そういう世間話でよく言われていることを理路整然と否定して、エビデンスを持って緻密に語ることができなければなりません。

今年から
2回生、3回生のゼミを持つことになりましたので、学生を鍛えようとしています。例えば、スタバはなぜ成功したのかを議論することから始めました。サードプレイスを作ったからというのは、当時そういうカフェが他にいくらでもあったことから、説明になっていません。ファッショナブルな空間を作ったからというのも同様です。これを理解するには、時代の変化を理解しなければなりません。戦後生まれの米国の若者が自らの存在を証明する手段を物質的な成功ではなく文化的エリートの価値に求めたのですが、同時に文化を囲い込むエリート主義やスノッブを否定し文化が民主化していくという矛盾した動きが重なったのがスタバなのです。スタバはオーセンティックなイタリアの文化に忠実であるのではなく、単に「イタリア語」を使うことで、文化を二重に読み解き軽く滑らせたのです(Douglas Holtを参照)。スタバに限らず、世の中を変えたヒット商品は全て時代の変化を読み解き、新しい社会を現前させたものです。

こういう説明が後付けであるという批判はあると思いますが、目指しているのは理論により将来を予測することではなく、時代の変化に敏感に反応する能力を培うことです。通常は何も考えずにすっと流れていきます。ペットボトルの水のパッケージを見てその意味を解き明かしたり、大学生がポールスミスの財布を持つというのがどういう意味があるのかを真剣に議論することで、この時代の変化を敏感に感じ取るスキルを鍛えています。これをするにあたって、社会学などの理論が役に立ちます。例えば、まずブルデューとその批判から始めていますが、それでかなりのことが説明つきます。その後、ジェイムソン、ハバーマス、フーコー、ボルタンスキー&シャペロ、レクヴィッツなどをカバーしていきたいと思います。理論をツールとして利用するだけも価値がありますが、やはりその理論自体がどういう時代背景で生じたのかを理解することで、社会の変化を読み解く深度が変わります。

大学で育成する人材に実務的な知識を与えよというプレッシャーが強く感じられますが、重要なのはその実務的な知識がどういう時代に埋め込まれていて、どう変化しているのかを掴めることが重要なのです。我々学者は自分の研究を通して時代を捉えようとしているので、その成果はこのような実務の教育に結びつくはずです。そういうことを考えずに、それぞれの分野の細かい部分だけを研究していたのでは、確かに馬鹿にされるだけです。そのなかで無理矢理、実務に役に立つ個別の事例を主張しても意味がありません。学者は直接的に企業と共同研究しなければならないとか、企業の利益に貢献する研究をしなければならないと結論する必要はありません。むしろ、企業が見ているものに批判的に向き合い、違う世界の可能性を提示することこそがその仕事です。

そうすると大学で育成する人材が企業がそのまま取りたい人材であるはずはありません。企業が求める人材を否定することができる人材を育てなければならなりません。昨今の大学改革は大学教育のこの基本的なことすら理解していないと思います。もう一度大学で勉強された方がいいのではないでしょうか。一方、大学はこのような人材を育成できるのかを問われていますが、個別の教員が努力しているだけで、大学らしくない反論しかできていません。

大学の存在意義

先日から書いていますが、Intercultural Communicationという授業で、文化を議論しています。モダニティ、モダニズム、ポストモダニズムなどについて、Lyotard、Habermas、Jamesonなどを読み直して議論しています。社会学者でも哲学者でもなく経営学者としての考えです。今日夕方Xデザインフォーラムでの講演の内容にも関連しますので、一応事前にアップしたいと思いました(誰も見ないと思いますが)。

学問の危機は今に始まったものではありません。知というものが信憑性を失い、学問を尊重するという気風が感じられなくなってずいぶん経ちます。学問の成果は社会では無視され、読まなくてもわかるような本しか読まれません。ランキングのような形で経済原理が持ち込まれ、学問が商品となります。大学の研究は細分化した中でそれなりに発展していくのですが、それが新聞に出てくるような他のニュースと同列となり、聞き流されるだけとなります。そして文科省をはじめ政治的な力が大学の学問を方向づけるような動きが活発化しています。

これを憂うだけでは、この憂うという行為自体の信憑性がなくなっていることを理解していないことになります。70年代以降近代の社会的な枠組みが解体したことによって、我々は社会において何か大きな歴史の流れ、打倒するべき旧体制、解放するべき個人のようなものを失いました。そのとき我々は社会を批判するという力が信頼されなくなり、むしろそのエリート主義が嫌悪されることになりました。社会の全ての部門が同列となり、ほぼ等しく商品価値として市場に取り込まれていくことになります。批判しなくなったということではなく、批判が空回りするようになったということです。モダニズムは社会の秩序に対する反発の運動であり、その反発する相手がなくなると消滅してしまうわけです(よい社会秩序が実現されたという意味ではありません)。

学問や知が信憑性を失う要因は、資本主義の発展による効率性の追求、技術の発展による生活の機械化、専門分野の細分化と分断、情報革命による情報の過多などではありません。そもそも学問や知を特権化してきた近代性に自体に内在する矛盾です。近代性は従来宗教や伝統などが中心的であった社会を解体し、合理的な知を祭り上げました。しかしながら、このような知をつきつめると、知自体の根拠も疑問に付さなければならなくなります。そのとき、知に根拠を与えていたもの自体を解体するのは知自身なのです。だから近代性がニヒリズムにつながったり、相対主義が全ての差異の根拠を破壊してしまい何も残らなくなってしまうわけです。

そこで学問は他の社会の部門と同列になるわけですが、その中でなんとか立場を維持するために自らを正当化しなければなりません。2つの戦略があります。一つは、学問が社会に役に立つということを示そうとする方法です。簡単に言うと、学問への投資はそれなりに他の部門でのリターンとなるという筋書です。もっとも典型的なのは、工学や医学などで研究が新しい技術を生み出し、市場価値を生み出すというストーリーです。ここでは学問を商品として積極的に価値を高めていく戦略となります。あるいはドイツ的には精神の歴史や国民精神というものへの奉仕であるというように洗練されたものや、文学は人々の精神を豊かにするとか、哲学は我々の生に統一的な意義を与えてくれるというのも大きくは同じ論理に見えます(これらの信憑性が失われているというのがそもそもの問題です)。

大学としてはこの勝負に投資をしていくことは合理的なことです。理工系に投資が集まるのはリターンを得るためには必然です。しかしながら、ここでは詳しく書く余裕はありませんが、学問が技術を介して経済価値を生み出すというリニアモデルは、ほとんどの領域で成立しないということはすでに経験しています。今は素晴しい技術が生み出されても、その投資を回収できるだけの独占的な利益を確保できるかどうかは、どうやら偶発的であり結果論でしかないようです(だから諦めてやるべきではないということではありません)。同時に多くの場合、技術を開発すればするほど技術のコストが低下していきますので、これはもともと目指していた状態でもあります。

しかしながらもっと大きな視座からは、社会の中で全てが同質化され市場に回収されると、薄っぺらいイメージの連鎖を形成するようになり、「もの」自体の価値は陳腐化してしまうことが重要です。技術自体に価値がなく、「デザイン」や「サービス」が重視されるのはそのためです。市場の中に完全に身を置いて経済的価値を生み出すためだけに投資をすると、どんどん自らの価値を限定していく結果となります。そこで、そのような価値低下のスパイラルを打ち破るラディカルなイノベーションという神話が作り上げられるわけです。繰り返しますが、このように学問を商品として売り出していく戦略は合理的なのですが、この両義性を理解した上で遂行する必要があります。おおむね理解されていません。

しかし学問が自らを正当化する方法は、これだけではありません。学問がポジティブな意味で正当性を示すのはもはや不可能であることを認めるところから始めなければなりません。そして、学問が自らを根拠として示すことができる唯一の正当性は、社会における既存の正当性の枠組みを解体するということしかありません。つまり既存の社会秩序の前提となっているものを揺さ振り、相対化していくということです。このように破壊的な行為が学問の残された唯一の正当性ですが、間違えてもこれは特権ではありません。

ここで我々はかなり微妙な戦略を取らなければなりません。まず、市場に完全に取り込まれず、市場から半自律化し批判的な距離を保ち、市場の外側で価値を生み出していくことが必要になります。同時に、社会から自律した特権的な学問は信憑性を失うことになるため、社会の中に自分を位置付けていく必要があります。このように内に入り込みながら外に距離を取る感覚が、今学者に求められていると思います。学者はこれらの間を常に動き回らなければなりません。フィールドを重視する京大のアカデミックな探究は、もともとこのようなものだったのかもしれません。

ちなみに、社会の正当性を批判していくのであれば、学者の仕事は正当であるとは認められるはずはありません。だから学者は社会をよくすることでわかりやすい評価を受けるのではなく、むしろ社会を混乱させることで非難されるべきということになります。ランキングで評価するのは本末転倒です。そのようなアホなことを目指せばさらに正当性を認められないじゃないかと言われると思いますが、それがこのゲームのミソです。社会が自らを批判する力を失ったというのはその通りですが、だからこそ批判の力は限定的ではありますが神秘性を帯びます(もちろん学者が認められず成功しない事実は変りませんが)。

MBAで、しかもIntercultural Communicationという授業で議論するような内容ではないのではないかというご指摘があるかもしれませんが、以前にも書いたように、このようなことを理解することは、経営の実務にとって近道であると思います。もっとも重要なIntercultural Communicationの議論だと思って授業をしています(文化は常に「インター(inter)」であり、他者に関する表象です)。

日本の大学はどこに向うべきか

シンガポールでのサバティカルもそろそろ終りに近づいてきました。最後の仕事をして帰国します。

シンガポールの大学がランキングを急速に上げているというのは周知の事実です。私が今滞在している南洋理工大学はアジア2位(1位はシンガポール国立大学)とのことです。ビジネススクールも同様に急速にランクを上げています。このランキングは、主にお金をかけて業績を出せる研究者を積極的に呼び寄せるということによって達成しています。米国のトップスクールなみのテニュアトラックが整備されています。

対して日本の大学を取り巻く環境の厳しさは周知の通りです。予算がどんどん削減されて、大学自体がどんどん沈んでいく感覚が常にあります。自分の周りでも優秀な若い方が入って来れません。

しかしだからと言って、海外のこれらの大学と同じように勝負するのは意味がないだろうと思います。大きく2つの理由があります。一つは海外の大学と同じ土俵で闘うには、制約が大きすぎます。シンガポールなどの裕福な国と闘うのは無理があります。同じだけの給料を出すことはできませんし、そもそも規模が小さすぎます。

もう一つの理由の方が重要です。グローバルな競争によって、研究の範囲が狭められてしまうということです。論文の数の勝負となり、ある程度受入れやすい研究が多くなります。逆に、メインストリームの議論を批判的に捉えるような研究は成果をまとめるまでに時間がかりますし、論文も書きにくいためなかなか手を出せません。当然人によって目指すところは異なるのですが、私は後者のような研究をしたいと思います。そのための場が縮小していると言えます。

各大学も色々ランクを上げるためにがんばろうとしていますが、やらない方がマシだと思います。基本的に、イノベーションを起こそうと色々施策を打ったり、ルールやツールを用意することは逆効果です。余計な仕事が増えるだけです。

しかし一方で、研究者が好きなように研究できるように放任しておけばいいのかというと、それは成果を出すことを阻害するだけです。やはりパブリッシュすることで評価されるしかありません。我々はそれなりの英文ジャーナルに論文を出すことが求められています。数は多くなくても、英文で重要な論文を出さなければ、誰も読んでくれませんので、それこそ大学だけではなく国全体が沈んで行ってしまいます。ある程度グローバルな競争に身を置くのは避けられないと思います。

ということで、我々は皆矛盾した状況に置かれています。しかしそもそもこういう仕事が矛盾しているのです。自分にあてはめてもそうですが、メインストリームの研究から距離を取る場合、評価されないことが一つの重要な存在意義になっているようなところがあります。メインストリームの方々から評価をされると、何かマズいことをしたような気になります。我々はそうやって自らの場を自律化し、Bourdieuが言うように「負けるが勝ち」という論理を自らが構築しているのです。よくあるイノベーションの成功談に、上司や周りの人が反対する中でやり抜いたことを美談として語られますが、実はそれ以外に選択肢はないし、そのように反対されることが成功に内在的なのです。

マネジメントする側も同様に、矛盾したことを進んでやらなければなりません。表向けは真剣にマネージしようとしているが、そのマネジメントから距離を取り、そこから排除されるものにリスクを取ることができるかどうかです。本当に重要な成果を出していくために必要なのは、マネージしながらそのマネージする方法を常に相対化しマネージし続けなければなりません。企業の研究開発でもポートフォリオマネジメント、ステージゲート、リアルオプションなどありますが、それを真剣に実践することは重要ですが、同時にそれを真剣に実践しないことも重要です。

つまり、研究者が、評価をされないときこそ評価されたと思えること。研究者を評価したときに評価に失敗したと思えること。独り善がりですが、シンドい仕事です。こういうシンドい仕事ができる環境というのは恵まれていると思います。何の不満もありません。

留学のすすめ

もうすぐ年が終りますね。しかし1月には論文や本の締切が5本あって、これまでになくヤバい正月になりそうです。

先日学部生の方が海外に留学したいので話しをしたいということで来られました。21歳とのこと。海外に出て行ったときの自分が懐しいです。どんどん海外に行って欲しいと言いながら、微妙な話しをしてしまったので、勝手にもやもやした気持ちになってしまいました。MBAに行きたいというので、MBAはもはや価値がないという話しから始まり、研究者になるなら博士で留学するのがいいと言いつつ、でも研究者の道はシンドいので勧められないという話しをしていました。とにかく海外に行って欲しいと言いながら、どこが一番いいかと聞かれたので、自分は今ではLAもベイエリアも住んで仕事をしたいと思わないという話しになってしまいました(だからと言って京都に住みたいということではありません)。自分の言っていることを否定していることに気付きました。

なんでこういう話しになったのか… とにかく海外に出て欲しいと思いますが、それは海外に出ること自体にはそれほど意味がないことを理解するためであるというなんとも弁証法的な事実を気付かされました。当たり前のことですが、海外に出るとそこが一つの自分の場所となるので、次にはそこから別の場所に行きたいと思うようになります。コスモポリタンであるということも、それが当然のことですので(みんなそうなので)、何の価値もありません。もちろんそれが簡単であるという意味ではありません。だからこそ、海外に出て行って欲しいと思います。

とりあえず海外に行けと言いながら、今はとりあえず行くということが難しい時代です。昔のようにとりあえずMBAに行けばいいというようなことは通じなくなりました。自分の専門性を決めて、それに合った留学先を考えなければなりません。例えば、自分が博士課程で勉強したUCLAでは、MBAを減らしながら(FEMBAを拡充しつつ)、ファイナンスなどの専門性を持った修士課程(Master Program)を作ろうとしています。MBAができる前には専門的なMaster Programがあったわけですので、MBA以前に回帰しているわけです(ランキングにはよくありませんが)。そういう専門性を目的とした留学はかなり成果があるだろうなと思います。他には、自分の周りでヨーロッパにデザイン系で留学される方も多いです。

また、基本的には留学というのはお金をもらってするものであって、自分からお金を払ってするものではありません。米国の博士課程では大抵何らかの奨学金がついてきます。最低3年間は奨学金とRA/TA、それ以降は選抜がありますが別の奨学金があります。私も関わっていますが、UCLA Anderson(ビジネススクール)ではNozawa Fellowshipというのがあって、日本人留学生に特化した支援をしています(MBAでも出る数少ない奨学金です)。デンマークでは国の制度として博士課程(Ph.D. Fellow)には年間500万円ぐらいの支援があります(それが大学にとって足枷となっているのですが)。

また海外に行く別の方法として、企業インターンの制度は非常に重要です。私が学生だった10年ぐらい前なら、企業の研究所がインターンを受け入れてくれました。私は修士のときにフランスのXerox Research Centre Europe (XRCE)に、博士1年目からXerox PARCに行きました。日本にいると考えられないですが、米国のインターンはかなりの給料がもらえます。そのころで月5,000ドル程度はもらえました。これはGoogle、Intel、IBM、HP、Sun Microsystems(もうないですね)などでも同様でした。今ではもっと条件がいいだろうと想像します(ご存知の方は教えてください)。もちろんそれなりの専門性があってこそ受入れられるわけですが、学生なので基準はそれほど高くないです。ビザもサポートしてくれます。お金の問題はどうでもいいとして、重要な経験になります。私の博論の3分の2はPARCで書きました(学位を取る前にXeroxに就職してしまいましたので必ずしもインターンだけではありませんが)。またフランスで過した体験はその後の人生にとても強く影響しています…

加えて、今は自分が学生のころから考えるとうらやましいぐらい、交換留学や大学が支援する留学の仕組みが整っています。かなり多くの方々がこのような制度で留学されています。データを見たわけではありませんが、自分が学生のころよりも今の学生は積極的に海外に出ているように思います。この相談に来た学部生もそれを利用して、2カ国ぐらい行くらしいです。素晴しいですね。自分の博士課程の学生にもできるだけ海外に行くように支援したいと思います(すでに3カ国行っていて、来年は4カ国目です)。

とにかく海外に行って欲しいと思います。

ヨーロッパのビジネススクール

今回ヨーロッパのビジネススクールをいくつか回って得た感想です。ヨーロッパの経営学は、北米の経営学とは根本的にスタイルが違います。もちろん、ヨーロッパでも米国中心のジャーナルに成果を出すことが求められますので、米国的なスタイルを取り入れているところも多くなりました。しかし、違いは歴然としています。

例えば、デンマーク、イギリスなどのビジネススクールでは、最低限知っていないと議論に加われない理論的な知識というのがあります。よく聞かれるのは、Nietzsche, Heidegger、Deleuze、Foucault, Agambenなどです。一日に2、3回はそういう議論を聞きます。経営学がヒューマニティの領域と密接につながっています。これは米国のビジネススクールではあまりないことのように思います(日本でも)。もちろん一般的にという話しであって、中には色々な人がいますが。

私は米国のビジネススクールでトレーニングを受けて、現在はヨーロッパ的な研究に寄っているようなところがあります。この両方を見て、バランスを取ることの重要性が大事だと思います。ヨーロッパ的な研究は微妙な差異に対して敏感に深いところを炙り出すことができスリリングなのですが、結局哲学的な概念を使うことの必然性がわからないものも少なくありません。結果的に論文にならないモノも多いです。一方で、米国的な研究の問題点はその裏返しで、わかりやすい研究ではありますが、逆に予想ができて面白さがないという感じです。

私なりの結論としては、経営学の研究者は2つの別の理論軸を意識的に分けて培う必要があります。
  • 理論1 貢献する対象となる理論。つまり経営学の理論。この理論の問題を炙り出し、その問題を乗り越えることで貢献します。
  • 理論2 理論1の問題を乗り越えるために依ツールとして拠する理論。ここで哲学が出てきてもいいですが、あくまでも理論1が貢献先です。

ヒューマニティに寄っている人々は理論2だけに力点を置きすぎて、読者にとって貢献がわからなくなることが多いです。何よりも理論1が貢献先です。私の場合、理論2は意識して利用していても、論文には明示的に書かない場合も多いです(例えば、Hegelなんかを論文に登場させる利点があまりありません)。むしろそういうnamedroppingをしないでも理論1への批判に筋を通すというエクササイズが重要です。

一方で理論1だけでは、深く前提を切り崩すような研究ではなく、薄っぺらい研究になってしまう傾向があります。なぜなら理論1を批判していくには、何らかの視座が必要となりますが、その源泉が理論2であることが多いからです。仮説を検証したとか、経験的に何か新しいことがわかったとか、帰納的にデータから概念を浮かび上がらせたというような論文となり、厚みがありません。

ということで、理論1と理論2の両方を意識して使い分けないといけないのです。自分の学生には、博士論文のために前者の理論1を完全に理解することは必須ですが、自分が今後依拠していくような理論2を2つぐらい作り上げて欲しいと思います。理論2は現状に対してかなり批判的に考えることができるような力強い視座がいいと思います。私の場合は(米国発ですが)エスノメソドロジーであったり、批判理論と呼ばれるようなものであったりしますが、Foucaultでも、現象学でも、ポストコロニアリズムでもいいと思います。

そのためにはかなり広く読んで理解した上で、自分の依って立つものを選ばないといけません。教員のガイダンスが重要だと思います。その後のキャリア全体にわたっての資産となるでしょう。一方でそれがないと、筋の通った学者のキャリアを作るのは難しいように思います。

もちろんこのような指導ができるようになったのは最近で、自分もかなり苦しみました(誰もそのように指導してくれなかったので)。

ビジネススクールの教員の給料

いろいろ考えさせられることですので... 下記はたまたま周りから聞いた話しですので、あしからず。またビジネススクールに限った話しです。

米国のビジネススクールの教員の給料は、日本の(国立大学法人の)教員の給料と比べものになりません。フルプロフェッサーで150k USD(1,600万円)あたりが相場でしょうか。チェアがつくと倍になります(つまり300k)。

英国のビジネススクールは、現在の為替レートで日本の国立大学の給料より2割ぐらいいい感じでしょうか(
高山佳奈子先生が45歳940万円ですのでそれと比べて)。1年前の為替なら全く話しが違って5割ぐらいの差になります。プロフェッサーで、75k-100kポンドのレンジです。

イギリスからデンマークに移った人に聞くと、交渉したけど給料が減ったと聞きました(Brexitの前)。色々な要因によると思いますが、デンマークの方が若干低いというのは意外でした。デンマークはそもそも職業間の差が比較的に少ないです。またデンマークは税金が高そうに見えますが、外国人は5年間税金が優遇されますので、それほど悪い条件ではありません。

フランスは一般的に大学教員の給料は問題があるぐらい低いのですが、(グランゼコールの)ビジネススクールはある程度の水準にはなります。さらに、トップクラスの英文ジャーナルに論文が通ると1本につき10kユーロのボーナスが出るところもあります。アジアの国に多い制度ですが(タイだとUSD15k)、バカにならない額ですね。

ただし海外の大学の給与は交渉などで変化します。イギリスで学内の重要な仕事についた知り合いは120k(1,700万円程度)です。別のイギリスの知り合いは交渉して破格な給料をもらっていて170k(2,450万円程度)です。これはかなり例外です。この方はかなりの研究資金・寄付金を集める力があります。それから副収入もありますね。

余談ですが、米国と勝負をしようとするシンガポールは著名な研究者の招聘に力を入れています。ある場所では大物を年収1億円ぐらいで招聘しようとしたという話しも聞きました(国立大学です)。

ちなみに上記はフルプロフェッサーの話しですので、私は准教授で年齢的にも上記の水準より
はるかに低いです。何の文句もありません。6年前にシリコンバレーから戻ったときにちょうど半分になりましたが(大学ではなく企業でした)、税金も生活費も日本の方がかなり低いです。

日本の国立大学の教員の給料水準は低いし改善の余地はありますが(特に海外から呼ぶために)、逆に自分が重要だと思う独自の研究にこだわることができる側面があります。シンガポールのように高い給料を用意してグローバルで勝負をしようとすると過度な競争となり、全体的に面白い研究よりも論文を出すための研究が重視されます。それはなんとしても避けなければならないところですので、その意味でも給料だけを問題にしない方がいいように思います。そのあたりをヨーロッパの人々はよくわかっていました。

せっかく低い給料をもらっているのなら、他の人の評価を気にせず、自分が重要だと思う仕事をしましょう。どちらもなければ不幸ですね。

ビジネススクールの今後

ビジネススクールは今後20年間の間に4分の1ぐらいになるだろうというのが、イギリスの感覚です。多くのビジネススクールはMBAの授業料で運営していますが、MBAを取る人は年々少なくなっています。現在はそれを留学生(多くは中国の方々)によって埋め合わせているのが現状です。日本の大学はそもそもMBAの授業料では生計を立ててはいませんので状況は若干異なりますが、MBAの数は減っていく傾向は止めることができないでしょう。

一般的なMBAがそれほど役に立たないという意見は昔からあるのですが、私もそれに同感です。人々がMBAに求める知識なり経験というのは、もはや簡単に手に入る状態です。本屋で何冊か買って読んだり、企業の研修で多くのことが学べます。20年ぐらい前でしたら、米国ではMBAを取ると給料が5割ぐらい増えるという感覚でしたが、今ではどうでしょうか? 今後もMBAを取ろうとする方々の数は減っていくでしょう。

すでに経営のためのエリートを養成するという概念は古臭くなっています。最近では考える前に実行するというようなことが重要だとされています。デザイン思考のようなものを取り入れるのも一つのやり方ですが、すでに社会に十分普及してしまっていますので、無意味でしょう。大学に来て経営の基礎や応用を学ぶというのは、そもそもありえない話しですが、それがありえたのは近代という特殊な時代のためであって、経営学それ自体の力ではないのです。

そこで各ビジネススクールは専門性を持たせるような戦略を取ります。私が所属する京大のグループではサービスに特化したプログラムを6年前から始め、今年度からホスピタリティやツーリズムに拡大しています。これは社会からの要請が大きな領域ですし、戦略的には興味深いところです。これは今後かなり盛り上がると思います。原先生、若林直樹先生のリーダーシップのおかげです。

それと同時にMBAの教育自体がある程度変化していかなければならないと思います。私の個人的な感覚ですが、実践に近づくよりも、学術的な研究に近づいていかなければならないように多います。英国もデンマークも多くがそれを志向しています。経営学の最先端の知識は経営の実践にそれなりに役に立つのですが、それだけで2年間MBAに通うコストを正当化できるものではありません。大学が提供できて他にはできないものというと、学術的な研究しかありません。つまり様々な現象の前提にある微妙な差異を捉え、それを説得力のある形でうまく表現していくという力です。

ということで京都大学の経営管理大学院では、今年からMBAを減らして博士課程を作りました(上記は私が勝手に言っているだけで、必ずしもその理由ではありません)。いずれにしても地方の交通の便もよくない大学にわざわざ来られるわけですから、他と同じようなMBAでは意味がないと思います。

経営学とは

また新学期が始まり学生さんが入ってきました。この時期は色々な方々に経営学のことを説明するのですが、若干のずれを感じるときがあります。

世の中で「ビジネススクールに行っても経営ができない」とか「実務に役に立たない」というような批判が聞かれますが、そもそもそのようなことを教えることを目的とはしていません。経営学はあくまでも学問です。「学問」であるとは、世界をどうするのかという方策や、また世界がどうなるかの予測ではなく、世界が可能であるための「前提」について考えることを意味します。私はMBAの授業でも、そのような前提についての問いを投げかけて、考えていただくところから始めることを意識しています(結果的に学生からの評判はよくないですが)。

実際に我々のビジネススクールには、成功された経営者の方々が毎年何人か入学されます。これらの人の経営能力は繰返し証明済みです。同時に、経営学を教えている教員は経営ができるわけではありません(できる人もいるかもしれませんがそれは偶然です)。その中で双方がビジネススクールに存在意義を認めるとすると、それは経営のやり方を教えるという意味ではなく、経営についての前提を問うことができるというだけにすぎません。学者は中立な立場から客観的に経営について分析することができる(そしてそれを考えることとそれをするということは違う)というのは正しい説明ではありません。そんなことは学者でなくてもできます。あるいは経営学で議論されている最新の知見を教えるというのも存在理由にはなりません。そもそもそのような知見を批判することを仕事としているはずです。

だからと言って、学者は自らリスクを負わず、学問のために学問をするべきでもありません。自分が研究の対象とする世界の中に含まれており、距離を取って特権的な地位に立つことはできないからです。自分がそして自分の理論が世界の中でどういう位置付けにあるのか、どういう前提をどこから引き継いでいるのかを常に考え続けなければなりません。世界が可能であるための条件を探究し主張する理論は、本来的にわかりにくいものであり、人々に違和感を与えるものであり、必ず拒否されるものです。人々が聞きたいことをカッコよく言うのは学者の態度ではありません。学問の自由について
本学の山極総長の式辞でも触れられていますが、私なりに違う言い方をすると、学問の自由というのは特権を与えられて好き勝手なことをするということではなく、人々に認められず、批判され、否定されても、仕事をやりとげる自由です(ところで、憲法に書かれていてもそんな自由は誰も保障してくれません)。そうやって考え抜いた理論が社会に対して唯一の貢献となるのですが、そのときその理論は社会からは否定されるのです。

ちなみに、多くの学問の中では経営学はあやしげなものと見られることがあります。つまり、経営という実務的な目的のために浅い研究をしているというように見られています。経営学を学問としてやっている教員は、必ずしも利益を上げる経営を無条件に正とはしていませんし、学者である限りにおいてはそのような前提を受入れるのではなく、その前提こそを探究するものです。経営学者こそ、経営というものに対して最も批判的であるはずです。それは単に経営というものを俗っぽいものとして切り捨てるような安易な批判ではなく、経営の前提を考えつくした上での経営の内部の視点からの批判です。

なお、当然ながらこれは私の個人的な考えです。