Destructured
Yutaka Yamauchi

女将(おかみ)さんとは

英国の研究者とやっている伝統的なビジネスにおけるジェンダーに関する共同研究のために、女将(おかみ)さんについて調べていました。その中で、後藤知美さんのとても興味深い論文を見つけて興奮してしまいました。素晴しい研究だと思います。コンタクトしたら、お忙しいスケジュールにもかかわらず、快くzoomで議論させていただくことができました。

後藤知美 (2016) 女将の誕生: 新聞・雑誌記事にみる旅館の女性像. 現代民俗学研究 (8):39–56.

まず重要なことは、「女将さん」という概念自体がとても新しいということです。ややこしいですが、まず女将さんという概念が、お茶屋などで1880年代から使われ始める経緯、そして女将さんが1980年代から旅館の文脈で使われる経緯があります。

1880年代、つまり明治が始まって10年ぐらい経ったときに、お茶屋、待合、置屋などをきりもりする女性を指す言葉として、女将軍、女丈夫、女大将などの言葉が使われるようになり、1890年代に女将(ぢ(じ)ょしょう)という言葉が使われるようになります。「おかみ」という呼び方は1895年ごろに出てきますが、それが定着しルビがつけられなくなるのは1920年ごろです。女将がお茶屋で出てきた背景には、花柳界が女性で構成されていたことがあり、トップが女性でありながら采配する気風のよさや傑物ぶりを含意していたのだろうと思います(男性からの目線であり、必ずしも男性と同じようにその力量を認めていたということではありませんが)。

1950年ごろから「女将(おかみ)」が飲食で使われるようになります。これはお茶屋の世界での女性の主人に込められた意味が、飲食店を切り盛りする女性オーナーにも波及していったということでしょう。待合やお茶屋などが少なくなり、飲食店が増えていったという背景があります。

しかしながら、この時点では旅館の文脈では女将という言葉はあまり使われていないようです。この時代にはまだ旅館を利用する客は、ブルジョワ男性が中心でした(地元の湯治客を相手にしていた旅館を除いて)。このときの「女中」(今で言う仲居)は客の横について酒を注いだり、浴衣を着せたり、丁寧に世話をしていたようです。食事で魚の骨を取ってあげていたとも言います。ここで、女中と呼ばれた方々が、男性客から性的な目線で見られるという状況が見られます。劣悪な労働環境で働く女中の方々は地位が低かったようです。

しかし、1960年代からこの関係が変わっていきます。この背景には、女性客も増えてきたことがあると言います。女性客にとっては、女中がべったりついて細かくサービスをすることに嫌悪感がありました。しかしながら、同時に女性客は同じ女性として、女中のサービスに対して厳しい評価を下す存在でもありました。結果として、女中さんは従来の劣悪な環境で働かなければならない可哀そうな女性ではなく、自らのサービスを高め、仕事に誇りを持つように変わっていきます。

さて女将さんですが、旅館の文脈ではようやく1980年代に使われるようになります。この変化の説明がとても興味深いです。このころまでにホテルも増えてきます。旅館とホテルの両方を選ぶオプションがあるとき、人々は旅館とホテルの違いを意識するようになります。ひとつの考え方は、「ホテルは客から依頼があった際には必ず応えなければならないが、旅館は命じられる前に望まれるサービスを提供するもの」(p. 50)というものです。ところでこれは最近の「おもてなし」論に通じるものがありますが、おもてなしが日本にしかない特別なものであるという根拠のない理論です。

同時に、80年代になると社会が急速に近代化し、従来の日本の文化が失われる感覚を持つようになります(ホテルがその象徴でしょうか)。このとき、旅館がなくなってしまうのではなく、むしろ喪失しつつある日本の文化を感じる貴重な存在というように位置付けられていくようになります。そこで、女将が誕生するというわけです。つまり、芸事を習い、日本文化を象徴する女性としての女将が、非日常の体験として神秘性を帯びていきます(なぜ女性でなければならないのかは今後の研究が求められます)。ここで初めて、現在の女将さんのイメージが出来上がります。

つまり、伝統的な文化が失われているという感覚が、逆に伝統的な文化を作り上げて、それを神秘化すると共に、それがあたかもずっと昔からあるものかのように仕立て上げられていくというわけです。

論文とは関係がありませんが、これは20年代に柳宗悦の民藝運動にも言えることだと思います。資本主義の大量生産が発展し、それまでの伝統的な工芸が失われていったときに、初めて民藝という概念が生み出されます。小鹿焼のように昔ながらの自然と一体化した製法を保っている残された数少ないなものが、最高の価値となっていくわけですが、それはすぐに無くなって存在だからです。そして80年代ごろまで民藝の言説が力を持ち、日本の多くの家庭が工芸品を購入していたという事情は、上記のように80年代の女将の誕生と重なるところがあると思います(それを購入したのが主婦であったにも関わらず、主婦には民藝の価値がわからないという言説があったことも重要です)。

このようなことを丁寧に読み解いていく後藤さんの研究はもっと理解されるべきだと思います。自分もこういう研究をできるように努力したいと思います。