Destructured
Yutaka Yamauchi

サービスの弁証法

従来からサービスの関係性を弁証法で捉えようと提案してきました。私の研究が出発点が次のような疑問からでした。サービスの理論は全て客を満足させるということを前提としているにも関わらず、実際には多くのサービスが客にとって緊張を強いるようになっているのはなぜか? 京都の料亭、東京の鮨屋、高級なフレンチなどのことであったり、カッコいいカフェやリテラシーが求められるラーメン屋のことです。行きついた答えは、サービスとは弁証法的な闘争だというものでした。つまり、独立した他者によって自分が否定されて初めて、自分を証明し、他者に承認されることが可能になるということです。逆に一方的に満足させようと向って来られると、そのようなサービスには魅力がなくなったしまいます。つまり我々は満足させて欲しいのですが、満足させようとされると満足できなくなるという弁証法があるのです。

この考え方の基礎になっているHegelの主人と奴隷の弁証法は、生死を賭した闘いを語っています。これ自体が茶番であるということは批判されてきました。しかし私のサービスの理論は、さらに輪をかけて茶番になっています。つまりサービス提供者は、主人との絶対的な関係において奉仕をするのではなく、客から利益を上げるために奉仕をしているように見せているのです。客と提供者は基本的にはサービスの場を離れると、二度と会うことのない経済的取引関係において、闘争の真似事をしているだけなのです。サービスにおける闘争がおおむねゲームのような様相を呈するのも、闘争概念を横滑りさせている印象をあたえています。

実際には闘争概念を意図的に横滑りさせているのですが、その理由をうまく説明できていませんでした。ちょうどブックチャプターの仕事があり書いたのですが、現時点での私の説明は、Hegelの弁証法を弁証法的に「反復」しているというものです。どういうことでしょうか?

生死を賭した闘いは、独立した自己意識が、別の独立した自己意識と出会うという場面から始まります。どちらかが闘いを諦めて奴隷となり、他方が主人となるとするとすると、これは主人と奴隷の発生論的な説明をしていることになります。しかしながら、歴史的には独立した自己意識というのは、近代という時代の幻想であり、現在の現実を写し込んだものだと言えます。歴史的には、人々は独立した自己意識として他者と出会うことはなく、むしろ社会の中に溶け込んでいたのであり、主人に従属する人はもともと従属しているのであって、独立した個人という概念自体が近代的なものなのです。しかもその後に、奴隷が労働を通して自己確信を得るというときの「労働」は、資本主義社会において初めて普遍性を得る概念であり、時代がずれています。

一方で、現代の我々の社会を見てみましょう。我々は概ね社会の大きな物語から切り離され、我々は自分自身に送り返された上で、独立した原子状の個人として生活している感覚があります。我々は社会の規定の構造の中に埋め込まれたというよりも、自分ひとりとして投げ出され、そこで自分でネットワークを構築し、自分で自分を定義することが求められているのです。逆に言うと、我々の現在の方が、弁証法が成立する理想的な状況であると言えるでしょう。そして、サービスにおける人間関係こそが、それ以前の関係性がまったくない中で、見知らぬ独立した人同士が出会い闘争をするという、純粋な弁証法の基礎となります。

このような世界は、Hegel的に言えば、革命後のブルジョワ社会、特に私有財産を持つ個人同士が貨幣を媒介として出会う、主や王のいない世界ということになります。これらの個人は自分の身を危険にさらすこともなく、他者への奉仕として労働に従事するわけでもないため、他者との相互承認を得ることができません。しかしここで、我々の時代にサービスという人間関係が生じる理由があるとも言えます。経済の中心がサービスになるのは、技術革新により生産性が高まり農業や製造業に従事する人が減少するということや、従来家庭の中で閉じていたもの(料理や子育て)が全てサービスという形で商品化されたということや、モノ自体に価値がなくなったため価値が生じる瞬間であるサービスが重要になったということだけではありません。サービスは他者との相互承認を体験するという価値があるのであり、これが今の時代にこそ何よりも求められるようになってきたということです。そしてこの相互承認はあくまでも弁証法的に達成できないものなのです。

そうだとすると、この弁証法を現在の高度資本主義社会において「反復」すること自体が、弁証法的だということになります。つまり、当初理想とした主人と奴隷の弁証法は、現在の高度資本主義社会において初めて成立するのですが、そのときにはすでにそれは「ゲーム」でしかないということです。だからこそ、もともと主人と奴隷の弁証法は茶番であることにその本性があると言えます。

また勝手なことを書いてしまいました。最近何やってもうまく行かず、どん底でもがいているのですが、より深みにはまっていく気がしてなりません。