Destructured
Yutaka Yamauchi

「ほんもの」とは

現在、「ほんもの」(真正性 authenticity)の価値がどんどん高まっています。先日、京都外国語大学主催のシンポジウムで観光の「ほんもの」と「にせもの」について、越前屋俵太さんのファシリテーションで議論しました。観光客が喜んで見て感心しているものは、観光客が見ているという時点ですでに「にせもの」だという話しがあり、そもそも「ほんもの」とは何かという話しでした。そこで新しい気付きを得ることができましたので、少し説明したいと思います。

チャールズ・テイラーが言うように、「ほんもの」は、18世紀末の近代の開始時点で個人主義や道具的合理性が社会に浸透してきたときに、反撥して生まれたロマン主義に始まると考えられます。自分の内なる自然の声を聞き、自ら独自のスタイルを生み出すというものです。このときから、芸術は模倣としてのミメーシスから、独創的な個性を「表現」するようになりました。しかしここで問題なのは、ほんものを自分の内面に求める動きが、個人主義と重なるため、社会や他者を拒否し、自分のことだけを追求するという動きにつながることです。さらに、自分のことだけを追求するとき、他の人も自分を追求するので、誰も他者のすることに干渉できないという相対主義に陥るということになります。結局、自分の内なる自然を見つめ、自分独自のスタイルを作るとき、結果として他者と切り離され、より個人が孤立し、個人が取るに足りないものになっていくという感覚に陥ることになります。「ほんもの」を求めようとすると、「ほんもの」を得ることができなくなります。そして「ほんもの」が得られない不安が、余計に「ほんもの」を求めることにつながります。

つまり「ほんもの」という概念には、多くの緊張感があるのです。それを単純に、自分の内なる声に従って自分の好きなようにするべきだということになると、結局自分を裏切ることになります。つまり、テイラーが言うように、「ほんもの」を求めながら、個人に閉じることなく、他者との緊張感のある関係の中で、自分を表現するということが必要になります。「ほんもの」は自分の内なる源泉を追求することを通して、他者との承認をめぐる闘争に身を投じることが必要なのです。

その後、60年代以降の脱構築によって、「ほんもの」という概念自体が批判の対象となりました。コピーに対してオリジナルだと思っていたものが実はコピーであったということで、もはや「ほんもの」を信用できなくなりました。同時に、「ほんもの」だと言われている伝統や自然というのはブルジョワの価値観であって、批判の対象だったということになります。しかしながら、同時に60年代の若者の異議申し立ては、自分は特別であると思っていたときに、自分と同じような若者が大量にいる中で埋もれる感覚があるとき、個性を持った個人として価値を認めて欲しいという意味で、「ほんもの」の自分を追求したわけです。言い換えると、「ほんもの」なんて存在しないという批判をしながら、「ほんもの」を求めてきたわけです。逆に、求めているものが存在しないから、余計にそれを求めるようになったと言えます。この傾向は続いていると思います。

私が説明したのは、このような状況の中で、現在のエリートが求める「ほんもの」というのは、従来の伝統や階層を重んじたブルジョワ的「ほんもの」ではなく、むしろそれを批判したものであるということです。例えば、限られたブルジョワ的なものにこだわるエリート的な「ほんもの」を批判し、コスモポリタンとして他の文化を尊重し好むことができるという民主的な価値です。このコスモポリタンな「ほんもの」は、伝統や歴史という従来の「ほんもの」を批判する契機を含むからこそ、「ほんもの」感が出るのです。料理人は伝統的な料理をそのまま出したのでは、「ほんもの」ではないということを熟知しているのです。だから伝統の規範を否定し、つまり「ほんもの」を批判する形で、伝統を裏切って新しいものを導入して初めて「ほんもの」を提示できるのです。よく言われるように、「伝統」は、そのラテン語(
traditionem)のもともとの言葉からすると、「裏切る」(例えばtreason)という意味を持っています。

ここまでは私が説明したことでした。そこで議論になってとても興味深かったのは、この批判する「ほんもの」自体も時代遅れである可能性があるということです。例えば、原一樹先生に教えていただいたのですが、ポストツーリストという「にせもの」だとわかっていて楽しむ人たちがいるということです。ポストツーリスト自体は以前からあり、それほど深い議論にはなっていないのかもしれませんが、見方によっては「ほんもの」を批判する「ほんもの」を批判しているのかもしれません。例えば、自分は他の文化を尊重できるというコスモポリタンは、他の文化の最も伝統的な純粋さを追求します。例えば、メキシコの田舎の女性が作ったサルサしか「ほんもの」ではない、というわけです。これは明らかにエリート主義であり、批判の対象になってしまいます。つまり、「ほんもの」を批判する「ほんもの」自体が批判にさらされているのです。

芸術でもキッチュ(安っぽいもの)を強調する動きがありますが、キッチュがいいというよりは、批判することを批判していることが重要なのではないかと思います。つまり三重の批判が、「ほんもの」をめぐってせめぎあっているのです。この新しい批判者は、批判ばかりするエリート主義の堅苦しさを批判し、自然体で自分に素直に生きればいいじゃないかと主張している感じでしょうか。むしろコカコーラを飲んでマクドナルドを好んで食べるような、エリートに批判されている人々の素朴さこそ「ほんもの」であるという異議申し立てでもあるかもしれません。今回は、この新しい「ほんもの」の意味に気づかされました。

このような議論をさせてもらえる機会があって本当に感謝です。観光に限らず、あらゆる商品やサービスをしている人にとって、このせめぎあいを理解することが勝負の分かれ目のように思います。「ほんもの」を追求したらいいというのも、「ほんもの」なんてないというのも、どちらも短絡的です。今の消費者にささるものは、このようなややこしい三重の関係性を捉えたものだろうと思います。