Destructured
Yutaka Yamauchi

コロナ禍とデザイン: サマーデザインスクール

京都大学サマーデザインスクールのパネルディスカッションで、コロナ禍という大変革期におけるデザインの意味について自分の考えを説明したのですが、あまりにへぼい説明をしてしまい反省しています。

文化のデザインから始めましたが、それなりに説明できたように思います。8年前にデザインスクールを立ち上げるときに、社会の「システムやアーキテクチャ」をデザインするというミッションを掲げました。そのときの説明が社会をデザインするとは言えないので、社会の仕組みをデザインすると言おうという歯切れの悪い言い方だったことが興味深いと思いました。そこで私は、デザインスクールのミッションが自身の限界を提示したのなら、その限界に取り組むこと自体がミッションだと考えて、デザイン学をやってきました。そして社会をデザインすることを仕組みのデザインに還元しないために行き着いたのが、「文化」のデザインだったのです。

デザインは問題解決や美しいものを作ることではなく、人々の自己表現としての文化を打ち立てるものだということです。コロナ禍でもこれが求められています。人々が、ある新しい文化に呼びかけられ、振り向くことでその文化に同一化するとき、それは単に理想の自分に同一化しているのではなく、誰か他者にそれを見せているのであり、誰か(自我理想)のまなざしのもとに同一化しているという緊張感があるということです。闘争としてのサービスの視座から言うならば、自分が否定されるとき、自分を証明し、承認を得るという言い方ができるかもしれません。

その後で、「枠組みの解体」というキーワードで話しました。あまりいいキーワードを選べなかったので、うまく伝わりませんでした。最初に思いついたのは、「例外状態」という言葉でした。安易ではありますが、これはコロナ禍に関して炎上したAgambenのブログのことです。私は完全に共感できない部分があるのですが、そもそも社会を成立させている外部性を捉えようとする議論は重要だと思います。Agambenの理論によれば、主権が法秩序を宙吊りにしつつ法の内部にいるという事態、そして主権が例外状態を利用することによる、排除されるという形で内包される人々(例えば、戦時期ドイツのユダヤ人)、それらの人々の生死をターゲットとする生政治(強制収容所)は言うまでもなく重要なテーマです。ただし、炎上したブログで主張されたように、コロナ禍において例外状態を利用して、生政治をさらに強化しているのかどうかは、よくわかりません。

重要なことは、デザインは常に外部性を保持しているという点で、以前に定義したように、「デザインとは社会の限界点としての外部性を内部に節合することである」ということです。外部性は、力のあるものの「宙吊り」でもあり、力のないものの「排除」でもあるという意味で両義的ではありますが、どちらも緊張感があります。外部性を内部に節合するというのは、排除されていたものを内部に組込んで、問題を解決済みにするということではありません。あくまでも外部性としての緊張感があるわけです。なぜなら、排除は社会にとって付け足しではなく、社会そのものを成立させている条件だからです。

このことの意味をもっとポジティブに説明するために、Rancièreのエステティック(美学=感性論)を持ち出しましたが、ここでつまづいてしまいました。Rancièreの説明では、エステティック(な体制)とは、既存の階層秩序を宙吊りにすることです。例えば、カントが美的判断は無関心でなければならないというのは、現実の利害を宙吊りにするということです。だから、既存の枠組みを批判するという意味で、政治と結びつきます(だから政治的介入の芸術であるソーシャリーエンゲージドアートにおいて重要なのです)。人々が何を言うことができて言うことができないのかという感性論の水準で、ある人に声が与えられず排除されるという分割がなされます。エステティックは、既存の枠組みを解体し、この分割をやり直すことになります。

何が言いたかったのかというと、デザインはこのエステティック(美学=感性論)に関わるのであって、安全性を実現するとか問題を解決するという水準、あるいは面白いものを作るとか美しいものを作るという水準のことがらではないのではないかということです。既存の枠組みを解体し、今までには排除されていた新しい声を発することを可能にしなければならないのです。ただし、芸術は権力批判として成立しますが、この批判は単に悪者を大文字の他者として告発し、虐げられている人々を解放するという単純なものではなく、この排除を生み出している条件を炙り出し、新しい感性的なものの分割を提示するという微妙な実践なのです。だからこそ、必ずしも疎外されている人々を解放するだけではなく、多くの人々(例えばサマーデザインスクールの参加者自身)の新しい声、つまり新しい自己表現を可能にするという意味での解放がありえます。

さて、コロナ禍で社会的関係がオンラインに置き換わるときに、社会がどう変わるのか、どういう社会をデザインするのかという議論が盛り上がりました。オンラインでは人間が共感し合う関係を作り上げることができないのではないかという論調がありました。そうかもしれません。しかしながら、オンラインを考える前に、そもそも「真実」を伝えることができないポストトゥルースの時代の議論、すべてがイメージとなりオリジナルとコピーが見分けがつかなくなった状態における「真正性(authenticity)」の空虚さなどを考えるなら、これはすでに以前からの流れの一部であって、コロナ禍やオンラインの問題ではありません。そもそも真実や真正性とは何かを考えなければなりません。

そこでお話ししたのは、真実や真正性を作り出すことは、やはりエステティックに関わるのではないかということです。現実を忠実に表象したら真実になるという考え方や物事には本質があるという考え方が成立しないとき、ひとつの有効な考え方は、真実に対する反論を乗り越えるために、異種混淆の要素をどんどん配置していって、安定化させたものが真実だというものです(つまりアクターネットワーク理論です)。しかし現在は、そういう安定化の信憑性もあやしいところがあります。そこで真実は、既存の枠組みをゆさぶるときに出現するのではないかと思います。メディアでもSNSでもトラブルが起こった方が、本当らしさが出ます。作り込んだものは陳腐に見えます。自己破壊に神秘性が生まれます。そうすると、オンラインでも真実を伝えることや、真正性を表現することは可能ではないかと思います。

うまく伝えられなかったため、せめて文章で説明したいと思いました。