Destructured
Yutaka Yamauchi

闘争、暴力、テロリズム

私が闘争という概念を持ち出すとき、昨今の暴力と結びつけられて考えられる可能性があるので、この点を整理しておきたいと思います。先日は暴力をふるった人に関する記事に関連して私の闘争の概念を持ち出されたことがありました。それが誤解であるということは明白なのですが、問題は真剣に仕事をしている人々についても誤解を促進することに加担する構図になってしまったことです。料理人が何か暴力的な人々であるかのような言い方は、料理人をあまりにばかにしています。もちろん暴力的な料理人はいるかもしれませんが(つまり暴力的な学者もいるでしょう)、私が知る真剣に勝負をしている料理人は全く違います。

通常我々は闘争のような概念を避け、平和、愛、敬意、連帯、幸福などを議論します。しかし、私はこのような言説には違和感を覚えます。
拙書でエマニュエル・レヴィナスに依拠したのは、サービスを議論するときに、彼のホスピタリティ/オスピタリテ(迎え入れ)の概念は避けることができないと考えたからですが、レヴィナスの理論は闘争と暴力の関係について語ることを可能にしてくれると思います(彼がそういう言葉を用いたということではありません)。

つまりこういうことです。他者とは、我々には捉えきることができない、常にあふれ出るものであるということです。他者を前にしたとき、我々は絶対的な不安、焦燥、緊張を覚えるのはこのことを意味しています。我々は他人を飼い馴らし、他のモノと同じように扱うこと、つまり他者を自分に還元することはできません。他者との関係は、単に愛、敬意、絆のような概念に回収できません。むしろ、戦争や殺人と紙一重ということになります。そして、そこからレヴィナスは平和や正義を主張したのです。私はこれが社会の理論、そしてサービスの理論の出発点でなければならないと思います。なぜなら、他者に関して愛とか敬意とかだけを語るのであれば、すでに他者を自分が(超越論的に)構成できる世界の一部として、つまり自分が飼い馴らすことができるものと捉えているからです。そこにすでに愛や敬意はありません。

サービスの言説に関しては、客の要求を満たすこと、満足させること、笑顔で居心地のよい環境を作ること、心から奉仕することなどが語られますが、このようなキラキラした言葉でサービスを語るのは、単に学者が自分のイメージをサービスに投影しているだけで、これらの言葉が何かを隠そうとしていることを知っており、かつそれを拒否しているのだと言えます。この拒否は非常に根深いものです。

闘争の概念に一方的に憎しみや暴力をこじつける必然性はありませんし、そのような短絡的な議論しかできないのでは、現在我々の直面する困難を乗り越えることは望めないのではないかと思います。我々は暴力を乗り越えないといけないのであって、暴力から逃げてはいけないと思います(もちろん理論としてということです)。