Destructured
Yutaka Yamauchi

「おもてなし」とは

残念ながらオリンピック熱が冷めて、「お・も・て・な・し・(合掌)」という概念について少しみんなが距離を取ることができる時期なので、あらためて「おもてなし」は何かを説明したいと思います。私の本『「闘争」としてのサービス』はこれを主題としています(TEDxでも話しましたが、15分ではシンプルにせざるを得ませんでした)。

おもてなしは、広く書かれているものを見ると、おおむね「心のこもった」「見返りを求めない」「奉仕」などと書かれています。欧米の”hospitality”も、”generosity,” “friendly,” “goodwill,” “virtue”などの概念で説明されます。もしこの概念がこういう意味だとすると、学者でなくても、その問題に気付いてしまいます。おもてなしがある程度広く議論される背景には、このような概念に対して人々の持っている「違和感」があるように思います(人は違和感のない概念をとりたてて議論したいとも思わない)。

まずhospitality(フランス語も同じ議論です)のデリダの議論から始めるのがわかりやすいように思います(ところで「おもてなし」は”hospitality”とは異なる概念で日本独自の文化だという主張には、どのような根拠があるのでしょうか)。hospitalityはラテン語のhospesから来ていますが、これはhostisとpetsからなります。hostisは見知らぬものという意味で、これはhostilisという「敵」という意味になります。petsはpotes, potentiaなどに関連し「力を持つ」という意味です。つまり、hospitalityとは、「敵になるかもしれない見知らぬものに対して力を持つ」という意味です。hospitalityが緊張感のある力の関係であることは、例えば、ゲストに対して「是非くつろいでください」とか”Make yourself at home”などと言うときに、人々が感じる違和感を考えればわかると思います。つまり、本当にくつろいでもらったり、本当に自分の家だと思われては困るということです(京都人だけではありません)。あくまで自分の家であるという力を保持し、その中でそれを放棄することです。

デリダは、hospitalityは「不可能」であると言います。これは脱構築特有の言い方ですが(私は真理をついていると思います)、hospitalityが不可能であることが、それを可能にする条件だということです。つまり、それが不可能であるから、それを一瞬の狂気によって実現することに意味が出るわけです。しかしそのような狂気でもってしても、hospitalityは不可能であることには変わりません。その不可能性がそもそもその概念の魅力なのです。だとすると上記のような一面的なおもてなし概念やhospitality概念は、それが不可能であること、そして不可能であるからそれを主張することに意味があることを理解しなければなりません。

hospitalityが敵に対して力を持つという理解は、文化人類学にとっては当たり前にことです(例えば、モースやレヴィ=ストロースなどの理論です)。自分のコミュニティにふとやってきた見知らぬ人は、敵対する可能性がありますし、知らない魔術を持つかもしれない不気味なものです。そのような客人に対して、自らを開き迎え入れ最大限もてなすことは、敵を取り込むというだけではなく、自分がそのような不気味な客人に怯えていないこと、それをはるかに乗り越える力があることなどを示すこと、つまり自分の力を示すことを意味します。そして、そのように客人をもてなすことができる人は、そのコミュニティで他に人から一目を置かれ、権力を蓄積する源泉となります。

日本的には茶の湯の文化などで「おもてなし」が語られますが、そこには力関係が前提となっています(熊倉先生の本を参考にしています)。それは秀吉が利休の力を試すために花を無造作に置いたことなどのエピソードでも主題化しますが、そもそも茶室は狭い空間で客と亭主が近くに座り、相手の所作を詳細に見ることができるという緊張感があります。なぜそのようなデザインをするのかというと、互いの力を試し、示し合い、認め合うという前提があるからです。そしてそのような緊張感のある中で、自然に無駄なくふるまえることが力を示す条件なので、ここでもまた力を示していないことが力を示すことにつながるわけです。

つまり、おもてなしとは「闘い」です。他でも書いているように、闘いにはもっと様々な理論的意味を込めていますが、ひとつの意味がここで書いたことです。