Destructured
Yutaka Yamauchi

March 2019

論文の構造

ようやく新年度です。なんとか全員の博士論文の目処がつきました。すでに学位を取られた方々、おめでとうございます。論文の書き方については何度か書きましたが、こういうことを学ばずに博士号を取って修了してしまう学生さんが多いという現実に責任を感じています。下記は私の個人的な説明ですし、他の教員は違った説明をすると思います。どの教員も考えを持って指導しているので、それぞれの説明を聞いて自分なりに参考にするのがいいかと思います。ちなみに自分がきちんとできているという意味ではありません。

組織論という我々の領域では、論文の根幹は理論的な貢献です。何か新しいことがわかったというだけでは、論文が成立しません。次の4つのステップからなります。


Asset 5@2x


Read More…

デザインとは--須永剛司先生との議論を通して

須永剛司先生が東京藝術大学を退任されることにあわせて、特任教授としてご尽力いただいてきた京都大学デザインスクールでも特別講義をしていただきました。

IMG_0755

須永先生の結論は、「つくるプロセスがわかること、それがデザインだ」というものでした。デザインとは単につくることではなく、つくることがわかること、そしてそれがわかることによって、つくるもの(こと)が変容することである、というように理解をしました。須永先生は、デザインとはプロのデザイナーによる特権的な営為ではなく、市民が自分たちの生活をつくるということにまで広がっているというお話しをされました。デザイナーは市民がつくるプロセスをわかるようにすること、それを通して市民が新しい「つくる」段階に進むことを支援するということなのだろうと理解しました。この新しい段階の「つくる」は、それまでの「つくる」とは異なり、「デザイン」と呼ばれるべきものとなるというような話しかと思います。

この考え方は私にはとても腑に落ちるところがあります(と同時に受入れがたいところもあります)。デザインするという行為が、デザインとは何かという言説を含むということは、この時代の要請だと思います。以前は「デザイン」というと「こういうものだ」という理解をする暗黙の拠り所が存在していましたが、そのような拠り所の信憑性がなくなった時代です。

これはデザインに限ったことではありません。例えば、「大学」というと以前は「こういうものだ」という理解が得られていたと思います。特に説明を要しなかったのです。学問が社会の中で何か特権を持っているように考えられていましたし、大学教員はある種社会の外側に位置付けられ変人として片付けられてというところがあると思います。しかし、今はこのような拠り所に信憑性がなくなり、社会の中で特別な位置が与えられるものは存在しません。だから、大学教員はもはや授業をするとか、研究をするというとき、単に授業をしたり、研究をするだけでは済まされません。授業や研究をしながら、大学教員とは何か、大学とは何か、授業とは何か、学生とは何かについての言説を打ち立て続けなければなりません(これは教員だけによってではなく、様々な人々、制度、モノとの相互作用によってなされます)。

同様に、デザインするということが、何かをデザインするだけではなく、デザインするということがどういうことなのかという言説を含むことは必然です。これは最初に100年前にアートにおいて、デュシャンによってまず始まったことで、60年代以降の現代アートはすべからくこのパフォーマティヴィティ(行為を通して意味や現実を打ち立てること)を含まなければならなくなりました。現在のデザインも同様です。だから、デザインするということは、事前に定義できないのです。デザインとは何かという定義は、デザインの行為を通して打ち立てられるしかありません。

ここからが本題ですが、このデザインの定義はデザイナーが自由に提示できるものではありません。既存の拠り所が信憑性を失ったというのは、単に既存の枠組みが解体したというだけではなく、その枠組みに対する批判があるということだと思います。デザインやデザイナーがそれまで特別であったということに対する異議申し立てがあるように思います。この異議申立ては、ひとつには社会の中で既存の権利を持つカテゴリに対する一般的な批判ですが、もうひとつにはデザイン自体に内在するものです。つまり、デザインはあらゆる前提を問い直しクリエイティブに新しいものを表現するという行為であるという主張があるとすると、当然ながらデザイン自身の拠り所も問い直されます(学問も同様です)。現在において一切のエリート主義はその欺瞞を見逃されることはありません。

この状況で、デザインするという行為がデザインの定義をパフォーマティブに打ち立てるということは、必然的に自己破壊を伴うということです。つまり、デザインする活動は、デザイン自身を批判することが避けられないのです。たとえば自分のデザインはこれまでのデザインとは異なるのだという主張になるかもしれませんし、さらにデザインなんて無意味だと主張するデザインや、あえてデザインしないという方法もありえると思います。しかしながら、デザインを否定的に捉えるだけでは、カッコいいかもしれませんがつまらないものとなります。自己破壊をすることで新しいデザインの可能性を提示するというリスクに向き合った肯定的な実践こそが求められると思います。このニーチェ的なデザインが、デザインの最先端だと思います。これが須永先生のされていることを、私なりに解釈したものです。

デザインスクールは今月で補助金が終了します(プログラムは続けていきますので誤解のないように)。須永先生も東京藝術大学を退任されます。このタイミングでデザインの新しい姿が見えたことは、デザインスクールを一区切りするひとつの成果と言ってもいいように思いますし、須永先生が長いキャリアの中で積み上げてこられたものの重みを考えると当然のことのようにも思います。須永先生、これまでデザインスクールへのご尽力ありがとうございました。また、これから新しいチャレンジをされるので終りではありませんが、このようなお仕事を残されたことに感謝いたします。